フォーラムきっかけに 豊かな同胞社会を目指す
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一昨年大阪で副会長たちが提案
開催後を見据えたフォーラムに
金一一月に公演をしてBECAUSEプロジェクトをスタートさせて、ついこの間、秋の民族フォーラムの開催日が発表されました。今、着々と準備を進めている最中だと思うのですが。
趙真っ最中です。
金スローガンは決まりましたか?
徐まだ公表できないんです。民族フォーラム自体そういうものでして。当日まで謎のままに。
趙青商会中央の副会長もしているので、先週中央の方に行ってフォーラムの宣伝の進行状況を報告してほしいと言われましたが、「具体的には言及できない」から始まるんです。日時と会場ぐらいですね。
徐三~四か月前になればチラシに少しフレーズが出てくることもあるかもしれませんが、その程度ですね。
金次のフォーラムを兵庫ですると決まったころからいろいろ心づもりをしてきたとは思うのですが。
趙開催を決めたのは、一昨年の大阪のフォーラムでした。運動場で私が当時の中央会長と副会長に「二〇一八年のフォーラムは兵庫でします」といいました。その後はずっと、今のようなペースではありませんが、協議は重ねていました。去年の一月までにざっくりとした方向性は決めて。
金二年前に候補が決まるというのは、青商会の層の厚さですかね。
徐どうでしょうか。フォーラムの開催は挙手制ですから。中央青商会がどこかにやりなさいというのではなく、「次は私たちがやりたい」と手を挙げることになっているので。そういう意味では早かったですね、ほかに比べて。
金なぜ手を挙げようと思ったんですか?
趙実は、フォーラムするなら全国的なものではなく、兵庫の同胞たちにメッセージを送るフォーラムにしたかったんです。そんな大それたこと、できるかなと思いながら。
大阪のフォーラムで、運動場で朝大の同級生と飲んでいたら、最後の方に副会長たちが「会長、フォーラムしようや」と言うて集まってきました。「大変やで、言うけど、大変やと思うで、やったことないけど」って言うたら「いや、やろうや、兵庫やらんなあかん」ていうので「よっしゃわかった、飲んだ席で終わるのは嫌やから今から言いに行ってくる」っていうて、「愛知の次は神戸がします」と言いに行きました。私もそうですが、副会長たちも、何かしら兵庫に新しい風を入れんことにはという危機感というか、みなが一致した何かを持っていたんでしょうね。それで大阪の会場にいなかった副会長と地域の会長に翌日電話しました。誰も反対しなかったんです。
金兵庫同胞たちのフォーラムと考えていたのが全国的な規模ですることになって、今はどう考えていますか?
趙フォーラムは全国版でも、実際にやっていくのは兵庫同胞たちです。兵庫の同胞たちが参加してピンと来なければ、全国の青商会会員が元気をもらって帰っても、それは不正解だと思うんです。兵庫の同胞たちが盛り上がるのを見ながら全国の青商会が「兵庫があんなんしとったから、われわれもこんなんしてみよか」とか、思ってもらえるようにやらんとね。フォーラム以降もちゃんと見据えてやらんとね。民族教育の問題もそうだし。BECAUSEプロジェクトも一応は来年度(二〇一九年三月)末までという期限があるので、期限内だけにするのか。そしたらそのあとBECAUSEプロジェクトスピリッツはどこへ行くのかと。もう一年少ししかないじゃないですか。
一発の花火とか、舞台で終わるのであれば、たぶんここまで悩まないと思いますしね。
金始めるにあたって、4・24七〇周年とかいう考えはなかったんですか?
趙いいえ、ぜんぜん。本当にやろうと話していく中で、実は「4・24七〇周年やで」「ああ、そうやったんか!」ということで、これは兵庫がすべきやろということで、決まるまでにそのことを言いまわって自分たちで盛り上げて、決まるまではそんな感じでした。決まってしまったら腹が座るので。
金兵庫にとって、4・24にはどういう意味があるんですか?
趙兵庫の同胞にしか守れないことが沢山あると思う。全国的に、大阪でもあったというけれど、兵庫の同胞が特許を持っていると思うんです。
改めて4・24教育闘争というのを考えたときに、言葉は知っていて、枕詞のように使われているけれど、結局4・24って何やろなって、4・24をまず知ろうというのから始まっています。教育闘争って言ったら、ハッキョを守ったって思われがちやけど、ハッキョを守ることによって民族の尊厳とわれわれの存在を守った、ハッキョだけ守ったんやないでというところからスタートしたんです。いつから始まって、なんで4・24になったのか。それもちゃんと知ろうと。4・24のプロジェクトチームも組んで、いろいろ4・24について知る企画をしています、こうご期待なくらいに。今も勉強の真っ最中ですが。。
金4・24を勉強しながら、現状と重ね合わせて考えたことは?
趙今も押さえつけられているということは同じでも度合いが違うじゃないですか、あの当時と。まず鉄砲は出てこない、想像できないです。さっきの大阪の話のように小学生が三日間拘置所に入れられるってどんな環境やったんやろって。同胞たちが本当に強かったと思います、当時。何か行事をするにしても肖像画ドンっと、共和国旗ドンっと掲げてやっていたじゃないですか。朝鮮人が負けられるかという気持ちだけで生きていたんじゃないかな。運動会でもオモニたちはチョゴリだったし、運動会の演目でドラム缶の上に米軍の顔付けて、それをたたくという演目がありましたよね。
金そう考えると昔のハッキョと今のハッキョはかなり違いますよね。でも当時の記憶でウリハッキョを中傷する人が多いですが。
趙朝高にまだ革命歴史の授業があるとか、思想教育ばかりしている、とか言う親はきっと朝高の時に思想教育されていないんですよ、たぶん。
金そうですね。
趙「オリンシジョル(金日成主席の幼いころの話)」が授業にあろうとなかろうと関係ないんです、彼らには。今にそぐわない内容もあるじゃないですか「虹をつかんだ」とか。でもわかっておかなきゃいけないことも多いんですよね。
金そうですよね。最も非難されているウリナラを理解することは大切ですよね。
趙こっちの報道はすべてノーで日本の報道は受け入れられるという不思議な風潮があるというか。
地元の同志を見つけ出して
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