4.24教育闘争から70年 奪われた学びの機会
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女性たちの闘いにも光を
リャン・オクチュル
七〇年前の「女盟時報」(現在の「朝鮮女性」在日本朝鮮民主女性同盟の機関紙)六月号は「先頭で闘う女性たち」の表題のもと4・24教育闘争関連の特集を組んでいる。
当時、検挙、投獄された同胞とその家族を救援するため兵庫県に泊り込み活動していたニョメン中央委員長・金恩順氏の報告も掲載されている。
「同胞女性たちは、命をかけて、百折不屈戦っている。神戸長田署に拘留されている李順念女史は二歳の幼児を連れているばかりか七歳の子どもは入院しているのに仮釈放さえ許されていない。そんな状況の中で、獄中の女性たちは、輝くような笑みをうかべ、最後まで戦い貫きましょうと話した」
4・24の現場にいた両親から当時の話を多く聞き、獄中で受けた拷問のため病床に伏せるアジョシ[おじさん]を見舞うアボジ[父]についていった時、ハッキョ[学校]は楽しいか? と問うた彼の声、表情を忘れられない私は、これらを伝えていかなければならないという強い想いを持っている。特に、埋没されがちな女性たちの証言を残していこうと心に決めている。
4・24教育闘争の一ページ目にその名をしるす山口の「一万人の徹夜闘争」に参加された一世のオモニ[母親]のことばから記そう。
「赤ちゃん、おんぶしていったの。替えのおしめを持ってってなくて、たいへんだったのよ。あんなに長くなるなんて思わなくてね。赤ちゃん、お腹空いたって泣くし、気持ちわるいって泣くしで、たいへんだった。家に帰ろうか、自分ひとり抜けても大丈夫かもって考えたりしたさ。まだ寒い時だったから、濡れたおしめが冷たくなってね。その上にまたおしっこして、あたしの背中までぐっしょりさ。かわいそうだった。でもね、この子のしあわせのためだって自分に言い聞かせてがんばったのさ」
兵庫県のオモニたちの話から。
「4・24の時の朝連本部委員長の朴柱範先生の地元が西宮で、ご近所だったんだ。やさしい人だったよ。それなのに、アメリカと日本の警察が捕まえて、半年以上牢屋にいて、死ぬちょっとまえに釈放されたんよ。ひどいと思わん? もうあかんとわかったから捨てたんよ。人民葬をしたんだよ。私も行った、湊川。何千人も人が集まって、みんなが泣いて、怒って、団結したんだよ」
「あの日、兵庫県庁に行ったの。県庁といっても今みたいにりっぱな建物じゃなくて女子校を接収して使ってて。その二階に運よく入れて、朝連の金台三さんやら、張秀致先生やら交渉団が県知事室入るのを廊下でみたよ。がんばって! って声かけて。長いこと出てこんなと思ってたら、アメリカ軍のえらそうなんとMPが二人か三人来て、知事を助ける言うから、廊下におったみんな知事室に入って、すごいことになったんよ。もみくちゃになったその時にMPがピストル出したん。その時よ、どこかのアジュモニ[おばさん]がブラウスはだけて『撃て! 撃てるんやったら撃ってみい!』って叫んだんやで。すごいやろ。若い兄ちゃんも机の上で同じこと言うたけど、アメリカの奴らアジュモニに負けたんや」
「男の人らはあの時戒厳令とかでみんな隠れてて。外に出てこられなかったんよ。そのあいだ、女の力でハッキョ守ったんよ。子どもらも布団をハッキョに持ち込んでね。毎朝、MPと警察が来るのを校門の前で女たちが座り込んで入らせんかったんよ。それをあいつら面白がってジープで突っ込んできて怖がらせるんやで。ほんま憎たらしい。アメリカの奴らガムをくちゃくちゃ噛みながら、それもへらへら笑いながら。ほんま今でもあいつらの目が忘れられへん。黄色やら青いのがビー玉みたいやった。それでも全然怖いと思わんかったよ。うちら正しかったから。子どもらのためやったから」
そう、4・24教育闘争は代を継いで語らなくてはならない。子どもたちのためだから。
[ ]内は編集部による。
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