4.24教育闘争から70年 奪われた学びの機会
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もくじ
インタビュー
在日本朝鮮民主女性同盟大阪本部顧問、生野西支部顧問
姜善和さん
1941年2月 大阪生まれ
1947年 鶴橋朝鮮小学校入学
1949年9月 鶴橋小学校編入
1961年 在日本朝鮮青年同盟 専任活動家に
1964年 在日本朝鮮民主女性同盟大阪本部や生野西支部で専任活動家として活動
2008年から現職
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小学生だけで疎開通りをデモ
三日間留置された六年生の話に涙
朝鮮の子は皆ウリハッキョへ
校舎の中、教科書で授業
金淑子現在の大阪第四初級学校の校区に三つのウリハッキョがあったと聞きましたが。
姜善和第一が、私が通っていた鶴橋朝鮮小学校で、今の第四初級が第十(鶴桃)です。それに東桃谷のほうに第九(勝山)がありました。今残っているのは第十の第四初級だけです。
金同胞が多かったんですね。
姜多かったです。当時は本当に多かったです。
金顧問は二世ですか?
姜二世です。両親が一九三〇年代に済州島から渡ってきたようです。
金済州島の話は聞きましたか?
姜あまり聞けませんでした。オモニは海女ではなく、馬のしっぽで笠を編んでいたと言っていました。祖母が昔の人で、女性は勉強しなくていいと言って、学ばせてくれなかったそうです。ところがいつも家を空けている祖父が家に戻ると、女性も学ぶべきだと言ってオモニを夜学に送ってくれたそうです。祖父が家にいる間だけ通って文字を学んだと言っていました。だからウリクル(朝鮮の文字)は知っていました。
金当時、済州島でも女性の夜学が盛んだったんですね。日本語は?
姜日本語も独学で学んだようで、難しい漢字以外は読んでいました。基本的な計算もできて、生活に支障をきたすことはありませんでした。アボジは大学に行きたくて日本に来たけれど、行けなかったそうです。学帽を被ったかっこいい写真が家に一枚だけあったので、「アボジ大学に行ったの?」と聞いたことがありました。すると「行きたくてこんな格好もしてみたけれど、行けなかった」と言っていました。
私は解放前に生野で生まれて、生野で育って、今まで生きてきました。なので生野しか知りません。
金学校はずっとウリハッキョですか?
姜鶴橋朝鮮小学校に入学したのですが、4・24で学校が閉鎖された後は通うところがなくて、結局日本の学校に通いました。鶴橋朝鮮小学校と隣り合わせた土手の上に日本の小学校がありました。閉鎖された後はその学校に通いました。
金顧問が通っていたころには朝鮮学校の校舎があったということですか?
姜ええ、校舎がありました。解放後に講習所としてあったと聞いていますが、私が通い始めた一九四七年にはすでに校舎がありました。そういえばオモニ、アボジが仕事を終えて、毎晩出て行くので、「どこに行くの?」と聞いたら、「ハッキョを建てに行く」と言っていました。当時は幼くて、新しく建てたのかどうかはわかりませんが、そんなやり取りをしたことは覚えています。
金児童は多かったのでしょうか?
姜よく覚えていませんが、写真を見て、ああ、これくらいいたのかなという感じです。当時は同胞の子どもたちはウリハッキョに通うのが当たり前で、近所の子たちはみなウリハッキョに通っていました。でも今となっては東京にいる二人以外、ほかの同級生たちのことはわかりません。
金子どもたちはどんな格好をしていたんですか?
姜制服はありませんでした。
金お昼ご飯は?
姜家が近かったので帰って食べたのか、午前中だけの授業だったのか、昔のことなのであまり覚えていないんです。
金いろいろな科目の授業があったんですか?
姜ええ、あったと思います。朝鮮学校が閉鎖されて三年生から日本の学校に通ったのですが、授業には十分ついていけました。日本語もしっかり教えていたんだと思います。算数や日本語も別に差はなかったと思います。
金教科書はありましたか?
姜あったと思います。でも記憶はあまりなくて。
助け合って生きていた同胞
警察に追われていた先生たち
金先生のことで覚えていることは?
姜最近、先生たちの写真を見てこの先生に音楽を習ったのを思い出しました。当時は先生たちのお給料も出ていなかったのだと思います。年末に先生が持ってきたたくさんの石鹸をオモニが売ってお金に換えて先生に渡していたのを覚えています。たまには家に食事に呼んだりして、そうして助け合って暮らしていました。ある日先生が慌てて家に来て、オモニがトイレにかくまったことがありました。そのあと警察が訪ねてきて。先生は裏口から逃げたようです。弾圧が厳しかったんでしょうね。そんなことが何度かありました。当時は何のことかわかりませんでしたが。
金4・24教育闘争の記憶は?
姜ある日警官隊が学校に押し寄せてきたのは覚えています。先生たちはすぐに逃げました、捕まってはいけないから。先生がいなくなった学校で、上級生が皆を集めて、デモをしたことは、はっきり覚えています。上級生たちが、自分たちだけでデモをしようといって、学校の近くの疎開道路、疎開する人たちがたくさん通った道だというので今もそう呼ばれているのですが、その道路を皆で行進しました。上級生が「座れ!」と言ったら座り込んで、「走れ」と言ったら一斉に走って。先生はいなかったんですが、どこかで見ていたようで、学校に帰った後、「よくやった」とほめてくれました。何日かそんなことをしていたのですが、そのうちに六年生の男子と女子の児童が警察に捕まって、三日間留置所に入れられました。釈放された上級生たちが皆の前で話をして、それを聞きなが ら、大変な思いをしたんだと、皆で泣いたのを覚えています。当時のハッキョは殺伐としていました。警察が押し寄せてきて、先生は誰もいないし、子どもたちだけで。当時、学校には太極旗が掲げられていたんですが、警察がそれを下すのを見ながら先生たちが泣いていたのを覚えています。「人民共和国宣布のうた」を習ったのもこのころだと思います。先生ではなくて、私たちが運動場で遊んでいるときに訪ねてきた人に教わりました。大人になって朝青に出たときにこの歌を聞いて、当時を思い出して一緒に口ずさみました。
金警察がいつ来たのかわかりますか?
姜一九四八年だったと思います。あとで以前女性同盟の顧問をしていたパク・チャノクさんから聞いた話ですが、今の第四初級学校、当時の第十朝鮮小学校に警察が押し寄せたときは、オモニたちが学校前にあおむけに寝て「私たちを殺してから入れ!」といって抵抗したそうです。
金当時は二年生、七歳くらいでしたよね。怖くはなかったですか?
姜学校がすごく楽しかったんです。学校に行くのが楽しみで、放課後には鶴橋のあっちの方にある友達の家に遊びに行ったりして、なにしろ毎日が楽しかったのに、ある日警察が押し寄せて、先生たちがあっという間にいなくなって、なにがなんだかわかりませんでした。だから上級生に言われるままに動いていました。
金ハッキョが無くなったらどうしよという不安が大きかった?
姜ええ、さっきも言ったように、ウリハッキョの隣の少し高いところに日本の学校があったのですが、たまたま同じ日に運動会があると、楽しんでいる私たちに、日本の学校の児童や保護者が土手の上から、憎まれ口をたたいたりして嫌がらせをするんです。それで私たちが言い返して。だからその学校に行くなんて考えられなかったんです。
金でも結局ウリハッキョは閉鎖されて。
姜いつ閉鎖されたのかははっきりわからないのですが、四九年九月、三年生の二学期から朝鮮学校の隣にあった日本の学校に通いました。四九年四月には閉鎖されていたようですが。閉鎖された後、五、六年生たちは日本の学校に行くのは嫌だと、そのまま働いた子どもたちが多かったようです。同じクラスにはウリハッキョから来た同級生が四~五人いました。すごく優秀な子と、まったく勉強しない子と極端でした。中間がいませんでした。
暗澹とした日々に差した光
「私にも祖国がある!」
金生活が厳しくて、勉強どころではない子どもも多かったのでしょうね。
姜本当に貧しかったです。私も下着のようななりで学校に行ったことがあります。当時は食べるのがやっとで。日本の学校に通い始めた頃、一人すごく優秀な朝鮮学校出身の男の子がいたのですが、悔しいといって試験用紙を白紙で提出したことがありました。
金幼いなりに抵抗していたんですね。名前は本名で? 通名で?
姜始めは本名で行きました。ところが日本の学校の先生は「カン・ソナ」ではなく「キョウ・ゼンワ」と、それも男子児童の名前だと思って男子と一緒に呼んだようです。私は聞き取れなくて、家に帰ってアボジに「先生が私の名前を呼んでくれない」と言って、アボジが先生を訪ねていったことがありました。その時から通名を使うことになりました。そうして鶴橋小学校、鶴橋中学校と、日本の学校に通いました。
一九五二年四月に朝鮮学校が再開されたのですが、その時は御幸森朝鮮小学校だけになっていました。今の大阪第四初級学校です。あとで知ったことですが、鶴橋朝鮮小学校の土地が知らない間に売られていて、同胞たちの間でいざこざがあったようです。それまでは一生けん命にハッキョの建設なんかに出ていた私の両親も、その問題以降は全く出なくなりました。
金中学を卒業してその後は働きに出たんですか?
姜そうです。生活が苦しくて、高校には行けなくて、働きに出ました。ある工場で働いているときに、同年配の同胞たちが集まって何かしていました。ところが何をしているのかとみると、いつもフォークダンスなんです。「フォークダンスが何の運動だ」と鼻で笑っていました。
金そんな顧問が、どうして総連に出るようになったのですか?
姜きっかけは帰国運動でした。帰国の道が開かれて、一緒に働いていた同僚が五人、帰国しました。その衝撃があまりにも大きくて。新潟から船が出るのをテレビで見て、「わたしにも祖国があったんだ」と思ったんです。それで朝青活動に出るようになりました。
金「祖国」はそれほど衝撃的だったんですか?
姜日本の学校では「朝鮮人」とバカにする同級生もいました。「なにくそ!」という気持で、勉強では負けないと思っていました。でも生活が厳しくて高校には行けず、卒業した後は、かばん屋さんや口金屋さん、貼工場といろいろ転々としました。みな同胞の経営するところで、働く人も同胞ばかりで、温かい雰囲気でした。それでも将来は真っ暗で、希望はありませんでした。あの時代みんなそうだったんだと思います。朝起きて工場に行って、夕方、家に帰って、ただむなしさばかりで。そんな中で、同じ職場の朝青のトンムたちが楽しそうに話していても、よく理解できなくて、「遊んでばかりして」と思っていたんですよね。帰国の道が開かれて、紙テープが舞って、同胞たちが踊って、泣いてするのを見ながら、どうして「私にも祖国がある」なんて思ったのかわからないのですが、何しろそれがすごく衝撃的で、いつも運動場でフォークダンスしていた同僚たちの気持ちもわかりました。それがきっかけでハッキョに行って青年学校で学んだりしました。
金始めてみると楽しかったですか?
姜もちろんです。こんなに楽しいんだと、毎日が楽しくて、楽しくて、夜の一二時頃ようやく家に帰っていました。
金当時、総連傘下の在日朝鮮人が、祖国を素晴らしいパラダイスのように描いていたのは、ウリナラの宣伝だけではなくて、そういう在日朝鮮人の現実が大きく作用していたということですね。
姜特に感動したのは金日成主席が出てくる「労働党時代」という映画でした。そこに出てくるウリナラの姿にどれほど泣いたことか…。帰国の道が開かれたときと「労働党時代」という映画を見たとき、衝撃が大きかったですね。暗い現実を照らしてくれる灯台というか、それこそ太陽でした。毎日ハッキョに行くのが楽しくて。そのうち朝青の専任活動家になりました。
アボジは「行くな」とは言わないのですが、夜の一二時を過ぎると必ず寝ないで待っていて「時間を守りなさい」と一言注意するんです。それが怖くて、遅くなるとそわそわしていました。そーっと玄関から入っていくと、必ずアボジが座っていて。それでも「行くな」とは一度も言いませんでした。
金朝青時代に印象深いことは?
姜一九六二年に、東京に住んでいたいとこが帰国したんですが、その時に新潟まで見送りに行きました。伯母は泣いて、泣いて、ようやく子どもを見送ったのですが、いとこは涙も見せずに「行ってきまーす」と意気揚々と帰っていきました。この時初めて帰国する様子を直接見たのですが、祖国と行ったり来たりできるのはいいなあと心から思いました。
朝青に出てからは何もかもが楽しかったです。朝青では、年末に餅つきをしてそれを売るのが恒例だったのですが、その時は三日間、一睡もしないで徹夜しました。でも辛いとは思わなかったんですね。オモニもアボジも、三日間帰らなくても、この時は怒りませんでしたね。
そうしてその後女性同盟に行って、六七歳まで専任活動家をしました。
一世の分会長たちの無償の奉仕
大阪同胞女性千人コンサート
金活動の中で特に印象に残っていることは?
姜六〇年代は活動しながら、一世の方たちからいろいろ学びました。朝青にいた頃は、朝六時に「回想記」を読んで勉強しました。私たちは「回想記」世代です。朝早くに家々を回って起こすのが、一日の始まりでした。その後、女性同盟に行くと、「回想記」に出てくるような一世が何人もいて、彼女たちから多くを学びました。
金具体的には
姜主に分会長たちですが、生活が厳しい中で、ハッキョのため、組織のためなら、身を粉にして走り回るだけでなく、二食を一食にしてでもお金を出していました。でも「犠牲」だとは思っていませんでした。それが当然だと。同胞への無償の奉仕です。済州島出身の女性たちで、学んだ人たちも多かったです。漢文の読み方を教えてもらったこともありました。普段は花札で遊ぶことも多かったですが、活動するときは字も達筆で、芯がありました。当時成人学校があって、教室ごとに三〇人くらい集まって勉強していましたが、分会長のオモニたちは皆、字を知っていました。字だけでなく私たちは足元にも及ばない知識を持っていて、情勢分析なども明確で、駆け出しのころ、私はただついて行っていました。
女性同盟に行った頃は「模範分会」獲得運動が盛んで、六〇年代後半からは帰国再開を求める運動が繰り広げられました。その後は祖国との往来、「朝鮮」籍を守る運動で、デモと署名運動の日々が続きました。字を知らないオモニたちも近所をくまなく回って署名を集めました。その数に、総連や朝青は遠く及びませんでした。
金その後は?
姜外国人登録法や外国人学校法案などが持ち上がるたびに阻止する運動を繰り広げていたのですが、一九七四年八月に「朴正煕狙撃事件」が勃発して犯人といわれた在日朝鮮人が生野の出身だったので、地域が一挙に緊張しました。今では笑い話ですが、民団同胞が営んでいる精肉店に肉を買いに行くと、「総連か? 民団か?」と聞かれて、「総連」と答えると売ってくれませんでした。そんな小売店が出るほど険悪な雰囲気でした。毎日警察がうろうろして。女性同盟では、ハッキョや組織の警備をするために地元や全国から集まってくれた同胞のために数カ月間、毎日炊き出しをしていました。でも若かったので、疲れを感じませんでした。
当時の支部は二階建ての古い建物だったのですが、「蹴ったら崩れそうな建物ではだめだ」ということで、その時に今の建物に建て替えたのです。七〇年前後して大阪では五つの学校が新校舎を建てました。ここの第四初級、大阪朝高、中大阪、南大阪、北大阪。それに加えて支部の事務所を建て替えるというので、ハッキョの時は千二百人、支部の時は千人以上の女性にカンパをもらいました。一九六八年九月一日の第四初級の竣工式は、ちょうど子どもの一歳の誕生日だったので忘れません。うれしかったです。
六〇年代から八〇年代中盤までは「模範分会」、「二重模範分会」、「愛国栄誉旗分会」など分会運動が最盛期を迎えていました。女性同盟では「康盤石女史を見習おう運動」が盛んでした。
金八〇年代中盤までですか?
姜私はそう思います。本当にいい時期でした。八〇年代は本部にいたのですが、八二年に初めて祖国に行きました。当時は親戚も何人か訪ねて行っていました。その後十二、三回行きました。一九八九年に平壌で世界青年学生祝典がありましたよね。あの時は大阪で三〇のお店を出したんですが、一か月半くらいの間、準備から後始末まで本当に楽しかったです。睡眠時間も三時間とれるかどうかの日々でしたが、疲れも知らずに楽しくて、楽しくて。
八〇年代は「ラングーン事件」とか「大韓航空機事件」とかいろいろありましたが、そんな中で一九八八年七月に、ザ・シンフォニーホールで大阪女性の一〇〇〇人コンサートを開きました。最初はシンフォニーホールが、貸さないと言っていました。この時神戸出身の金洪才が指揮棒を振って大阪交響楽団が演奏を担当したのですが、大阪交響楽団が一緒に行って交渉してくれました。そうしてしぶしぶ貸してくれたのですが、当日は観客が多くて、チケットもぎを会場の職員たちが手伝ってくれました。「こんなに大勢集まるのは初めてだ」と言いながら。当時コンサート会場としてはそこが最新の施設を備えていました。やる以上は一番いいところで、ということでした。
一番つらかったのは、冷戦崩壊の時でした。活動家の中で揺れる人もいて。祖国も厳しかったと思いますが、私たちも困難な時期でした。その次は拉致事件の発覚ですかね。そうして厳しい時期を乗り越えながら、若い世代の活動家たちが身を粉にして頑張っているので、頭が下がります。生野西支部の若い人たちは本当に頑張っていると思います。少し前の年初学習にも生野西支部からは、四〇代から七〇代まですべての年代が偏ることなく参加していました。全般的に厳しい時期だと思います。ウリハッキョの生徒数も少なくなって。その中でも大阪第四は百人台を守るために努力しています。
ハッキョは私たちの中心
広範な人々集まれる場
金どうしてウリハッキョが大切なのでしょうか?
姜大切です、私たちの中心ですから。民族教育がなくなれば総連の伝統はなくなります。今も顧問たちは毎朝子どもたちの通学路に立って見守り隊をしています。五年になります。三つの学区が統合されて生野初級になりましたが、第一と第三が無くなって同胞たちは集まる場所がなくなりました。支部もありますが、やはりハッキョが中心です。第四ハッキョも納涼祭やバザーには千人以上が集まります。民団の人も日本の人も最近は南から来た人たちも大勢集まります。支部はあらゆる意味で拠点ですが、ハッキョは大衆が集まれる場所です。必ずなくてはいけません。統合の流れがありますが、第四は何とか守らなくてはと思っています。何とか百人台を守りたいと。
金現在の児童生徒は四世、五世ですよね。ほかの国ではその国の人になっている世代だと思うのですが。
姜私の親友の娘たちが外国人と結婚するケースがいくつか出ているのですが、日本人と結婚したケースが一番難しいようです。フランス人と結婚してフィリピンに住む同胞がいるんですが、朝鮮人に対する偏見がないので、夏休みで日本に来たときは第四初級に通っていました。アメリカの人と結婚したいとこは、結婚相手はもちろん、その家族までパジ・チョゴリ、チマ・チョゴリを着て結婚式を挙げました。偏見がないんです。日本人と結婚するよりはいいのかなと思うことがあります。
第四初級の児童の中にオモニが同胞でアボジが日本人という家庭が四軒ほどあります。オモニは全員第四出身です。アボジたちがもろ手を挙げて賛成というわけではないようで、どうなるのか気になります。アボジが第四出身でオモニが日本人の場合、ウリハッキョに送るケースは稀です。第四も三軒だけですね。
金今の日本社会でウリハッキョに通わずに在日朝鮮人として生きるというのは?
姜家庭教育でそういうふうに育てるという人がいますが、難しいと思います。孫が今、日本の大学に通っているのですが、ある拍子に私に「ありがとうございます」って言ったんです。それまでは必ずウリマルで「コマプスムミダ」って言っていたのに。日本の学校に通うというのはそういうことなんだなと、考え方も変わっていくのかなと思いました。
金孫たちにはどのように生きていってほしいと思っていますか?
姜今、チェサ(祭祀)をしていますが、息子はオモニみたいにはできないと言っています。私のようにする必要はない、皆で集まって食事をすればいいと言っていますが、でもチェサをすれば親戚が皆集まってお膳を前に、まだ物心のつかない幼い子供たちまでが先祖にお辞儀をします。それも平素のお辞儀ではなく深く礼をする、そんな場が必ず必要だと思っています。三世になればやらないと思います。そういう風習が一つ無くなることで少しずつ日本人化していくのだと思います。それでも私たちの魂、朝鮮人としての魂を忘れないで、朝鮮民族という誇りをもって生きてほしい。
金生野区はトンポトンネですよね。住み心地はどうですか?
姜ここより住みいいところはないと思いますよ。ここは、コリアタウンがあって、今はお店の半分近くは八〇年代のバブル経済以降に南から来た人たちです。土日は通りに人だかりができて歩けないほどにぎわっています。ここにはもともと植民地の頃から同胞が沢山住んでいて、朝鮮市場通りがありました、だから地元の人は今も朝鮮市場と呼んでいます。
金済州島にルーツを持つ方が多い地域でもありますよね。四・三事件の体験者もいらっしゃったのではないでしょうか?
姜昔から四・三事件があったことは知っていたのですが、具体的な内容はわかりませんでした。四・三事件の話をすると体中が震えて発作を起こすオモニがいました。なのでそのオモニの前では絶対にその話はしないという暗黙の了解がありました。よほどひどい目にあったんだと思います。叔父さんが四・三事件の犠牲になって共和国の烈士陵に埋葬されたというオモニがいて、平壌にお墓参りに行って感激して帰ってきたことがありました。女性同盟の活動家になった当時の一世の委員長や分会長の多くは、おそらく四・三事件の体験者ではないかと思います。四・三事件については五十年くらい経った後にようやく話し始めました。それまではタブーでした。この地域でも誰も口にしない、口にしてはいけないことでした。南から学生たち二人が来て証言をとろうとしたのですが、誰も話してくれなかったということもありました。生野区民センターで五十周年記念行事があって、私も参加しましたが、そのころから公に話すようになったんじゃないでしょうか。48
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