感謝を胸に 共和国、総連の正当性示していきたい
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プロフィール
在日本朝鮮青年同盟
栃木県本部委員長
文炯駿さん
1988年 栃木生まれ
2004年 栃木朝鮮初中級学校卒
2007年 東京朝鮮中高級学校卒
2011年 朝大卒、在日本朝鮮青年同盟朝鮮大学校委員会
2017年4月から現職
6・15は記憶にない世代の「統一」
ハッキョ60周年行事成功の年に
金淑子一〇月(二〇一七年)に行われた栃木朝鮮初中級学校の創立60周年記念は同胞たちの手作り感あふれる温かいイベントで、多くの人が集まりました。いつ頃から準備したんですか?
文炯駿委員長実行委員会の発足は二月だと思います。僕が朝鮮大学校から本部に赴任してくる前のことです。来た時には、委員会の構成や中心メンバー、コンセプトなども決まっていました。
金コンセプトは?
文委員長六〇年間の歴史を感慨深く振り返って、現状をしっかり把握し、今後の課題を示そうということでした。これまで栃木ハッキョと縁のあった人々、先生や、卒業生、同胞や日本の方々とのつながりをもう一度確認して、民族教育を守るために力を結集するきっかけにしようということでした。
実行委員会は、金太竜実行委員会委員長を中心に、事務局と財政部や行事部、事業動員部、企画部、教育環境美化部、宣伝広報部という六つの部署を設けて、それぞれの部署の部長が副委員長を兼ねました。私のアボジの年代も相談役を担ってくれて、総勢四六人で拡大実行委員会を構成しました。中央青商会の李泰一副会長もアドバイザーとして手伝ってくれました。
私が本部に赴任したころには、すでに部長会議が二度ほど行われていました。行事の具体的な内容や会場設営、動員対象の整理や動員方法、校内の清掃美化計画やネットインフラ整備の内容・予算、チラシの作成や記念品の準備、協賛広告の募集など記念行事にかかる費用の捻出、宣伝の方法やスケジュールなどについて各部署では協議が重ねられました。「ウリ マウム モア(心一つに)」というテーマが五月末に決まって、活動内容が具体化し、本格的に動き出したのが、七月下旬でした。私は事務局で活動しました。
金赴任当時の雰囲気は?
文委員長栃木ハッキョの入学式で久しぶりに新入生二人を迎えました。60周年記念行事は同胞たちの関心事でもありました。二〇一七年は、なにしろ60周年記念行事を成功させるのだという雰囲気でした。
金60周年行事には四五〇人が集まりました。正直、在校生一一人の学校にこれほど多くの人が集まったのは驚きでした。
文委員長栃木では三〇世帯ほどが活動の中心になっています。この同胞たちが、様子見だった同胞や興味ないといっていた同胞に働きかけていきました。動員は最も大切なことなのですが、難しい仕事でもあります。実際に卒業生や若い世代を動員するのは難しかったです。
金印象深いことは?
文委員長印象に残っていることはたくさんあるのですが、実行委員会の方達が異口同音に栃木の底力を見せようと、どんなことがあっても成功させるのだと。そんな意気込みに励まされました。
個人的には、朝鮮大学校の青年同盟で六年間活動して栃木に来て、朝大にいた頃は学生たちと話し合いながら彼らの卒業後を目指して活動してきたのですが、実際に卒業後の現場である地域の同胞社会に出てみて、地域の特性をどうして生かしてくのか、いろいろ考えました。60周年行事を準備していく過程では、同胞たちが目指すことを実現するために抜けていることはないかと、常に確認するようにしていました。
金朝大での活動は学生という対象がいますが、地域の朝青は対象を探して訪ねていくことから始まります。難しい活動ですよね。
文委員長栃木の卒業生は県外に出ているケースが多くて、それでも県内に残っている卒業生を対象に、サマースクールの準備や年例行事を進めながら60周年行事への参加を呼びかけました。60周年行事の準備に追われて、朝青員たちとの活動が十分できなかったのではないかと反省しています。
金行事の準備では何を担当したのですか?
文委員長いろんなことを経験できました。フェイスブックで栃木ハッキョについて発信している「栃木同胞サンタルギ通信」はライングループの「サンタルギ」をコピーしたものです。ライングループは一五二人います。オモニ会や学校関係者、青商会などいろんな人が、栃木の慰霊碑を訪ねたとか様々なことをアップしています。栃木の同胞社会の日記のようになっています。最近はファイスブックに投稿できていないことも多いのですが。
金フェイスブックにアップすると反響は?
文委員長あります。以前はホームページを運営していたのですが、三年前くらいからラインのほうに移りました。
金SNSは同胞たちをつなげる大切なツールになっていますよね。他には?
文委員長ハッキョの運動会が六月四日にあったのですが、60周年行事のためにもまずは運動会を成功させなくてはと考えていました。栃木のハッキョは運動場が大変大きいです。その運動場の草むしりを先生と通学バスの運転手をしているパク・チャノクさんがしていたのですが、とても手に負えそうにありませんでした。なので運動会の二週間くらい前からは、午前の時間を草むしりにあてて、夜に60周年行事の案内や朝青活動をするようにしました。ハッキョを中心にした朝青活動だし、学校の解説・宣伝者として活動すべきだと思っていたので。その草むしりにできるだけ多くの朝青員たちを動員しようと考えました。草むしりを手作業でしなくてはいけないのか、今考えるといろいろな方法があると思うのですが、当時は自分自身の事前準備が足りなくて、毎日、目の前のことをやっつけるのに精いっぱいでした。
金やっつけていく中で特に難しかったのは?
文委員長まず何から手を付けていいのかがわかっていませんでした、課題が膨大すぎて。李泰一副会長のアドバイスを受けながら、今はこれをやる段階だよという具合で作業に励み、壁にぶつかるとまた相談してという風な流れでした。パンフレットやインタビューの撮影、式場設営、記念品の準備などでみんなの意見を集約したり、調整したり、段階ごとに進捗状況を報告したり、そんなことに追われていました。私は専任の活動家なので、このことだけに集中できます。
金具体的な取り組みになったのは何がきっかけ?
文委員長ホ・サンホさんにチラシの作成をお願いしたのですが、そのチラシの作成から具体的な活動が始まったと思います。どういう内容で作るのか、企画部でたくさん論議しました。「ウリ マウム モア」というテーマを設定したのが重要でした。「古巣ing 栃木」とかいろいろな案が出ました。
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