朝鮮学校無償化裁判:あまりにひどい東京地裁判決
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江夏大樹・弁護士 東京法律事務所ブログ>>>2017・9・18
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高校授業料の無償化の対象外とされた朝鮮学校の元生徒らが国に賠償を求めた裁判で、先日、東京地裁は、元生徒らの訴えを退ける判決を言い渡しました。
しかし私(あくまで個人的な見解)は、この東京判決はおかしな判決であり、無償化の対象外とすることは、許されない差別であると思います。
もくじ
~東京判決のおかしなところ
この事件では、2つの観点が大事です。1つは①教育の機会均等、もう1つは②就学支援金の適正利用という点です。
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教育の機会均等の観点
高等教育の無償化の目的は、教育の機会均等に寄与することです。
したがって、建学の精神に基づいて特色ある教育をしている場合でもその自主性を尊重するために、公立のみならず、私立、そして民族学校(インターナショナルスクール、中華学園など)も無償化の対象となっています。
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就学支援金の適正利用
他方で、無償化のために高校へと交付した就学支援金が、教育のために使われてないような場合には、就学支援金の支給をストップせざるを得ません。
③ここで重要なのが、政治的外交的理由により無償化の対象外とすることは許されない点です。
- 拉致問題を解決することと朝鮮学校を対象外とすることは繋がりません。
- 民族教育を理由に無償化の対象外とすることも許されません。日本国憲法は個人の自由を尊重しています(憲法13条)。
- もちろん、北朝鮮のミサイル問題も関係ありません。子どもたちへ責任追及することはお門違いです。
さて、①教育の機会均等 と②就学支援金の適正利用が重要な争点となった裁判で、東京地裁は以下のとおり判示しました。
おかしなポイントその1広汎な裁量を認めた点
「外国人学校についても就学支援金の支給対象とし、もって教育の機会均等を図ることが望ましいと考えられる一方、各種学校には様々な学校が存在」「いかなる学校の生徒等に対して就学支援金を支給すべきかは、その性質上、教育行政に通暁した文部科学大臣の専門的、技術的な判断に委ねるほかない」(判決)
しかしながら、①教育の機会均等の要請に照らせば、大臣に広汎な裁量を認めることは許されません。
特に、民族学校を支給の対象とするか否かについては、民族差別は許されないとする平等権(憲法14Ⅰ)及び教育を受ける権利(憲法26Ⅰ)の観点から、裁量を広く認ならず、これを認めることは、少数者の教育を受ける権利は、多数者(国会・内閣)によって容易に奪うことが可能となってしまうことを意味します。
おかしなポイントその2『疑い』のみで適法とした
「朝鮮総連と朝鮮学校との関係については・・・資産や補助金が朝鮮総連の資金に流用されている疑いを指摘する報道等が繰り返しされていたことなどを勘案すると、学校運営が法令に従った適正なものであることについて、十分な確証を得ることができ」ないから、対象外として「文部科学大臣の裁量権の範囲からの逸脱又はその濫用があるものとは認められない」(判決)
上記のとおり、判決では②適正な運用について、『疑い』『十分な確証を得ることができない』という理由で、対象外とする判断が適法とされています。
しかし、『疑い』だけで、朝鮮学校及びその生徒らを不利益に取り扱っていいのでしょうか??
憲法上の権利を単なる『疑い』で制約するこの判決はあまりにひどいと思います。
単なる疑いのみならず、むしろ②適正な運用を行わない十分な確証が認められた場合に限り、適法とすべきです。
なお、上記のように、判決において『疑い』のみで足りるとしたのは、大臣の裁量を広汎に認めたという出発点が間違っていることが原因です。
~差別は私たち皆の問題だ
ナチスに抗した牧師の有名な一節があります。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
(マルチンニーメラ-牧師)
ある人が攻撃されている時、それを他人事として見て見ぬ振りでいいのでしょうか。
今回の判決を見て、僕は見て見ぬ振りができませんでした。
それは、大学時代や研修時代に出会った数多くの朝鮮学校出身者の素敵な友達を思い出したからです。
このポスターのように「違いを認め、互いの人権を尊重し合う社会」への進展とともに、このひどい判決が覆ることを強く願います。46
恥ずべき判例、突っ込みどころ満載の判決内容
藤永 壮・「朝鮮学校の無償化を求める連絡会・大阪」共同代表
朝鮮学校「高校無償化」をめぐる東京の裁判は、原告敗訴の不当判決が言い渡された。事前に聞いていた裁判の状況から、勝訴の確率は高いと期待していただけに、いまだにショックが尾を引いている。国相手の訴訟の困難さを改めて痛感せざるを得ない。
東京判決の結論を簡単に言えば、「北朝鮮や朝鮮総聯」の「不当な支配」を受けている「疑いがある」朝鮮学校に就学支援金を支給すれば、支援金が「北朝鮮や朝鮮総聯」に流用される“疑いがある”ので朝鮮高級学校を不指定にした、という国の主張をそのまま追認したものだった。この点で、先に言い渡された広島の不当判決と軌を一にしている。
しかし、こうした国の主張はウソである。第二次安倍政権は発足直後、まず朝鮮学校を無償化制度から排除するため、朝鮮高級学校の指定を念頭に置いた根拠規定を削除する文科省令改悪を行った。その理由が拉致問題などの政治的外交的判断によることは、当時の下村文科相の発言などから火を見るよりも明らかである。「不当な支配」云々は、規定削除の措置が教育の機会均等をうたった無償化制度の目的に反することを、政府自身がよく知っていたために後付けした理屈に過ぎない。
だが審理の過程で、国側は規定削除の集中争点化を避けるために「不当な支配」の存在を強調し、これを裏付けようと、産経新聞の報道など朝鮮総聯や朝鮮学校を敵視する悪意に満ちた情報を証拠として提出していった。とくに公安調査庁の報告書を提示したことにより、朝鮮学校への差別政策を実際に支えたのは、国家の治安管理の思想であることが明確になったと言える。本来、教育行政のあり方をめぐる争いであったはずのこの裁判を、在日朝鮮人に対する治安対策上の論点へと引きずり込もうとしたのが国側の戦略であった。つまるところ日本の公安機関に根強く巣くう「不逞鮮人」観にもとづく差別意識が、朝鮮学校への無償化適用に立ちはだかったのだ。
もちろん、かりに「不当な支配」について云々したとしても、朝鮮学校が就学支援金を不正受給する「疑いがある」というだけで、不指定が正当化されることなどあってはならない。しかし結局、広島・東京両地裁は国側の思惑に乗った判決を下したのである。
東京の原告弁護団は、朝鮮学校が無償化制度から排除された過程を綿密に分析し、また証人尋問では文科省の当時の担当者を徹底的に追い込んで、朝鮮学校の根拠規定を削除し不指定とした真の理由が、政治的外交的判断によることを論証した。不指定が違法であることの動かぬ証拠を突きつけたのだ。
ところが「不当な支配」論に与した東京地裁は、治安政策的な観点から文科大臣の判断を適法と認め、政治的外交的判断による根拠規定削除については「判断する必要がない」と突き放した。原告弁護団のメインの主張についてはスルーし、全く応答しようとしない不誠実で無礼きわまる判決だった。任期が十分に残っていたはずの前裁判官が、結審直前に交代させられるという異例の措置に対して、疑いの目が向けられるのも当然である。
このような司法の権威や信頼性を自ら損なうような杜撰な判決が通用すると、裁判官はタカをくくっているのだろうか。だとしたら、これは随分と人をなめた話である。在日朝鮮人をなめているだけでなく、日本人も含めた日本社会の構成員全体をなめた思考と言わざるを得ない。こんな不当判決を許してしまえば、国家は自らが恣意的に「反日」のレッテルを貼った個人、集団に対し、安心して差別政策を取ることだろう。裁判に訴えられたとしても、司法が正当化してくれるのだから。
救われたのは、東京の報告集会で参加者がみな前向きに切り替え、逆転勝訴に向かってファイトを燃やしていたことである。判決内容が杜撰なぶんだけ突っ込みどころは満載とも言える。不当判決を下した裁判官は、歴史の一ぺージに恥ずべき判例を残したと悔いることになるだろう。闘いはまだまだこれからだ。45