私の 静岡ウリハッキョ 物語・下
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「静岡朝鮮学校友の会」の会報より転載。原題は「静岡の在日朝鮮人はどう生きてきたか! 卞末順(ピョン マルスン)さん(焼肉『味道園』)は語る!」。一部中見出しは整理者による。
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聞き書き・卞末順
「静岡朝鮮学校友の会」・編
4・韓国・慶尚南道から来たアボジ(父)とオモニ(母)
□貧しいアボジと大農家の娘のオモニ
アボジとオモニは、南の慶尚南道出身でね。アボジは、一杯飲んだら仕事はやらないような人間だった。
オモニも同じ慶尚南道生まれ。オモニの家は、山や畑もたくさんある大農家で、綿栽培もやっていた大地主でもあったの。
□顔にやけどを負ったオモニム
ある日、取り入れた綿が部屋いっぱいにあって、それが、どういうわけか電気に触れていっぺんに燃え移ったの。その横で、まだ二歳だった私のオモニになる娘と五歳になる兄が二人が寝ていて、そこに火の粉がふりかかってきた。
オモニの母親(私の祖母)は気が動転して、すぐに子どもたちを何とかしなければならないのに…姑さんがとてもきびしい人だったらしくて気が動転していて…とにかく火を消すことに気が行ってしまったのね。
だから、私のオモニになる二歳の子どもに火の粉が、降りかかってきたの、で、顔じゅう大やけど。だから、服をきてない肌が出ているところは大やけど。命の危険もあったけど、生命力があったんだね。
助かったけれど、顔のやけどの跡はずっと残ったままで、それを気にして、自分の庭にも出ることもしなかった。
□貧しいアボジのもとへ嫁に
母が二十の時と言っても当時は十代後半でお嫁に行くんだから、かなり遅い。父親が、家に出入りしていた行商人に、だれがいい人いないかね、と軽く言ったところ、その行商人は、母の三つ編みの後ろ姿しか見ていないので、いい男いるよ、と答えたのね。で、紹介されて、その人のところへ行ってみたの、そうしたら、その男の家は、畑の中にポツンと立っている掘立小屋だ。お勝手にお釜を置くところもないような狭い家だった。
それが、私のアボジになる人なんだけど…月に少し働いては、休んでね、その日暮らしの風来坊でね。母は、困ると実家へ行っては援助してもらう生活。そんな生活で、家族は、そんなところにいないで、裸足でいいから飛んで帰っておいでよ、と言ったけれど、当時はそれができなかったんだね。で、もう、子どもが男の子二人が生まれていたの…。
□二七歳の時、子どもを連れて名古屋に
それでね、オモニは二七歳、アボジは三〇歳を超えていた頃、兄が七歳、二番目の兄が三歳の時に、男の子二人を連れて、韓国・釜山から船で、名古屋港に渡ってきたんです。
理由は、オモニがいつも実家で面倒ばかり見てもらっていたから、もうこの際、はっきり生活を変えなければと思ったみたいで、着のみ着のままで渡日したんだね。日本に来たのは、母の意志によるものが強かったと思う。だけど、母の父(私の祖父)は心配していたらしく、何度か、韓国から様子を見に日本に来ていたようでした。
日本で知り合いがいたわけではないので、母はとても苦労したようで、軍手などを作る内職をやって生計を立てていた。父は、相変わらず何もしない、働かない、一週間に三日働けばいい方で、でも自分が一番偉いと思っている人だった。この話は、一番上の兄から聞いたんです。
□私は名古屋で生まれて
私は、家族が渡日してしばらくして名古屋で生まれたんです。名古屋の堀川沿いに住んでいました。私はその堀川で生まれました。
運河だった堀川へは南京袋にコメを積んだ船がやってきていて、その南京袋からこぼれ落ちたコメが、堀川の土手に芽を出し育って秋になると穂をつけるのを、母が二人の子どもたちを連れて傍で遊ばせておいて、稲の穂をつんで、ご飯の足しにしていたそうです。
二人の子どもたちが手伝うと、稲の葉で、手足が傷だらけになるんだね、そんなことも聞きました。
□犬山へリヤカーで引っ越す
それから、家族は犬山へ引っ越しました。リヤカーで引いて、遠かったですよ。でもお金がないから、それしか移動方法がなかった。初めは、街中に住んだけど、山のほうにあった、今の「明治村」のあたりだね・・。そこにあった「朝鮮人部落」へ移った。生活はやはり母の内職、父はろくに働かないで定職は持たなかった。
そこまでに、兄貴が四人、下に弟ができて六人兄弟となっていました。女は私一人。
父から可愛がられた覚えはなくって、アボジにはあまり良い思い出はないですね。母が、よくたたかれてり、蹴飛ばされたりしていた姿を見てね。私がよく真ん中に入って、父にぶら下がって止めに入ったこともあった。兄たちはどうしてか止めに入らなかった、今もよくわからない。
□母が内職やら豚を飼って
よく生活できたな、と思うけれど、内職やら、豚も飼って、八百屋さんに行っては残り物の野菜をもらってはね、大根とか人参とか、少ししなびたものを安くもらって、それを豚の餌にして、それが主な収入。
それで、家の周りに少し畑をつくって、ゴマとかえごまの葉とかね、自分のところで食べる分は作ったね。
□犬山の小学校で受けた「いじめ」
私は、犬山で小学校にあがったけれど、小学校の時にね、一番忘れられないことがあってね。はっきりと朝鮮人への差別だけれど。
ある日ね、同胞の女の友だち三、四人と、近所の川に籠を持ってセリを取りに行ったのね。すると、意地悪い日本の子どもたち、女の子もいたし男の子と四人くらいが、山羊を連れてきて、私たちが摘もうとしているセリを、先にヤギに食わせるのね。
それで、「なんてことするの!」って叫ぶと、その子たちが「チョーセンジン、チョーセンジン、おまえたち可哀そう、地震でお家がペッちゃんこ!」ってね、何度も何度も叫びながら逃げていくの、追っかけて行くと、今度は、こっちに向かってきて、殴り合いのようなことはなかったけれど、今でも忘れられないことの一つだ。
□小中を卒業して、兄を頼って名古屋へ
一番上の兄貴は、学校を一日も休まない最優等生だった。ほんとうは弁護士になりたかつたけれど、当時は、外国人は弁護士になれなかったから、あきらめてね。
その兄が、名古屋の北区の大曾根の水切町で、パチンコの機械部品を作る工場を立ち上げたの、それで、私も犬山で小中を終ってから名古屋の兄の元へ行くことになりました。
母は、そのまま犬山市楽田にあった「朝鮮人部落」に住んでいました。今、明治村の西側あたりです。
□朝鮮総連との関係は兄の影響が
私は、犬山の中学を卒業して、兄を頼って名古屋に戻ってきたわけですが、その時、兄が自営した工場は、名古屋市北区にあって、兄は朝鮮総連の名東支部の分会長をしていたから、私も同じ支部の青年同盟入ったんです。
父母は総連とはほとんど関係はなかった。だから、兄を通して総連の組織を知ることになったと思います。
□小学校五年の時に一宮でデモに参加
実は、先日、岐阜の同胞のお通夜があって、息子に運転してもらって行ってきたけど、途中、一宮を通ったんですね。
その時、ふっと思いだしてね。私も小学校五年生の時に、この一宮でデモをしたことがあるってね、それを思いだしたの。
一宮というところは、総連の組織が強くて、何かあると、一宮へ集結して、そこへ犬山からバスに乗って行ったことがあるの。確か警察署の前だと思うけれど、小学校五年生だったけど、大人に混じって「吉田内閣ブッ倒せ!」なんて大声で叫んだのを、思い出して。
ここでやったのだな、この一宮だったんだなあって。当時、デモが遅くなったので同胞の家で泊めさせてもらったの。夜だったからどこの家だったか覚えていないけれど、朝になって、てんこもりの真っ白いごはんに、大きめに切ってある黄色のタクアン、その横にホウレンソウの赤だし味噌汁が出たのを覚えています。
それを、この先日、車に乗って息子や娘たちに、この一宮でね、お母さんこうだったよって話したんですよ。
やはり、オッパ(兄)の影響だよね。
頭もよくて、正義感も強くてね。だげど、四九歳で、くも膜下出血で亡くなってしまった。
□ウリマルも朝鮮総連分会で習った
はっきりと、私が朝鮮総連との関係をもったのは名東支部に入った時だ。ウリハッキョには行っていないので、ウリマル(母国語)も分会で習いました。
この頃に、冒頭でも話したように、主人と見合いして結婚することになったんです。母親はね、七七歳で犬山で亡くなり、父親は、母の三年前に亡くなっていました。
□母は「愛と血と涙の一生」と言っても
母親はほんとうに苦労しましたね。日本語もうまくできないし、夫は働かない人だし、顔にもやけどの跡があるし、子どもを六人抱えてね、ほんとうに苦労した。
母は「愛と血と涙の一生」と言ってもいい。そのことを、詩の好きな嫁にまとめて記録に残してほしいと言っているんですよ。
だからね、オモニの分も頑張って幸せにならなきゃいかんなと思って。主人も私もこうして、元気でね、現役で店をやっていられるのも、「珍しい」ってみんな言ってくれます。ありがたいですよね。初めは、たいして話すことはないと思っていたのに、話し出したら結構思い出して、いろいろ思い出しましたよ。
□母の分も幸せにならなければと思い
同胞の仲間達たちとは、年に一回ぐらいは旅行に出かけたり、カラオケやってね、今、毎日友人たちと、ママさんが八〇歳になる喫茶店に行ってるのよ。オモニができなかったことをね、今、私がやっているの、母の分も幸せにならなければいけないと思ってね。
朝鮮の人がね、学校のことを心配したり、盛り上げたり、子どもたちのことを考えたりするならわかるけど、なんでも「友の会」の人たちが、こんなに一生懸命に私たち同胞のことを心配してくれて、ありがたいことですよね。46
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