発掘資料 :あの日から93年― 関東大震災 体験録 ③
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「関東震災白色テロの真相」(金秉稷編著 一九四七年八月 朝鮮民主文化団体総連盟発行)からの転載。同書には、志賀義雄、布施辰治、加藤勘十、近藤憲二、李鐡、柳田泉、申鴻湜氏らの生々しい体験談が収録されている。タイトルは整理者による、一部表記を現代文に直した。(編集部)
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朝鮮人数百人殺された
四ッ木橋の下流で焼いた
原題は「骨(吉村光治君の実兄と森亀戸署長)」
一
九月十五日頃光治が殺されたらしい風説を聞いた。十月十日いよいよそれが事実となって新聞に発表されたので、私は亀戸警察に出かけて署長にその実否をたずねた。
「事実です。遺族の方がわからないので今まで通知しなかったのです。」
「そんな馬鹿なことはない。」
と私は言った。巡査が光治の家や私の家を知っている筈だ。それに拘引された後も若い者だと物騒だというので、父が三度まで来ている。そして一度目と三度目には(帰した。途中うろうろしているのだろう)鼻先であしらわれ、二度目の時は怒鳴りつけられて帰ってきている。私はこのことを話して処置の不当を署長に向かってなじった。
「殺したのは私の責任です。巡査にそう言わせたのも私の命令です。」と、署長は泣かんばかりに詫びた。
「骨をどうしてくれる。」
と、私は言った。
「骨は荒川放水路の四ッ木橋の少し下流で焼いたから自由にひろってください。」
「あすこには機関銃が据え付けてあって、朝鮮人が数百人殺されたことは周知のことだから誰の骨かわかるものですか」
「明日(十一日)午前九時まで署に来てくれ、その場所に案内するから。」
と言うので、その日は別れた。
二
私は労働組合の者ではないが、他の殺された人の遺骨のことも考えられたので南葛労働組合の本部に出かけて行った。そして翌日皆で警察署に骨拾いに行くことにした。
翌日は無駄であった。「今骨のことで本庁に聞きに行っている。明日(十三日)来い」とのことであった。
皆は力ぬけがして引き返した。どうせ判らない骨を拾ってみたところで仕方がないとあきらめたのだ。
それから後私は警察から光治の徽章と帽子をさげてもらった。徽章と言うのは震災当時、光治等が災害事故防止調査会というものをおこして、道案内、排水、夜警に働いた章である。
弟光治の骨は、荒川辺の寒い風に今でもさらされていることだろう。(南吉一氏の供述より、聴取人、東海林民蔵)
鮮人と見違えられ拘引
遂に帰って来なかった
原題は「鮮人とあやまられて(殺された佐藤欣治君)」。「鮮人」は原文のまま。
九月二日私達は災害防止調査会というものを組織して、給水、道案内、夜警などに尽力した。佐藤欣治君もその内の一人だった。
佐藤君が鮮人と見違えられて(佐藤君は色白く丈高く一見鮮人に道がわれ易い)拘引されたことをきいたのは、九月三日の午後であった。
私達は配給米の交渉で役場に行く途中、香取神社境内の軍隊の本部に寄って見た。すると佐藤君が多数の鮮人と一緒に縛られていた。
私達はすぐ軍隊に対して佐藤君のことを話した。すると役場から証明を持って来ると釈放するというので役場へ行くと、「証明がなくたって君達が証明すりや充分じゃないか」との答えだ。その意味を伝えて、軍隊と再交渉すると「今調べ中だ。判ったらすぐ帰す」と言うので、私達は安心して帰った。
が、佐藤君は遂に帰って来なかった。光治の二人を心配して亀戸署に文をやったが、駄目だった。そしてやがて新聞に発表になったのである。亀戸署長は「革命歌をうたったり、乱暴して殺された」と言っているが、そんな馬鹿なことがあるべき筈がない。詭弁に過ぎない。光治も佐藤君もそんな馬鹿なことをする人間ではない。(南喜一、南厳兩氏の供述から。聴取人、牧野充安)
地獄の亀戸署
原題のまま
一(略)
二
身の危険を感じたので、私は九月三日亀戸署に保護を願い出た。自分のいた室は奥二階の室で、行った当日は二十人位が全部鮮人の人であったが、四日ぞくぞく増してたちまち百十名以上の大人数になり、足を伸ばすことさえできなくなった。
四日の朝便所に行ったら、入口のところに兵士が立ち番していて、そこに同志七、八人の死骸や〇〇〇〇〇〇(朝鮮人惨殺死骸か、この書の編集者注)に莚(むしろ)をかけてあった。また横手の演武場には血をあびた鮮人が三百人位縛られていたし、その外の軒下に五、六十人の支那人が悲しそうな顔をして座っていた。
四日夜は凄惨と不安にみちていた。銃声がばんばん聞こえて翌朝までつづいた。しんとして物音一つ聞こえない。ただ一人の鮮人が哀しい声をあげて泣いていた。
「自分が殺されるのは国に妻子をおいて来た罪だろうか、私の貯金はどうなるだろう。」
この怨声が寂しく、悲しく、聞くに忍び難いものであった。
翌日立ち番の巡査が言った。
「昨夕は鮮人十六名、日本人七、八名殺された。鮮人ばかり殺すのではない。悪いことをすれば日本人も殺す。おとなしくしていて悪いこともしなければ殺されないぞ。」
その時私は「南葛労働組合の河合」という言葉をききつけた。三人ばかりの巡査が立ち話をしているのだ。「やられたな」と、私は急に自分の身がおそろしくなった。
いつか便所に行く途中、日本人らしい三十五、六歳の男が二人裸にされて手を縛られているのを見た。一人は頭に傷があり、一人は半死半生の状態であった。
その夜また、数十人殺された。銃と剣で。
「いやな音だね。ズブウと言うよ。」
窓からのぞいて見た老巡査が妙なアクションで他の二人の巡査に話していた。(立花春吉氏の供述より、松谷法律事務所にて)
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