祖父母、父母の思い、次世代に伝え、在日同胞社会に根を張って生きる
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二五〇人が六年後一六〇〇人に
校舎補修、教員の給与保障も
李そうして二〇一五年のフェスタが終わった後、秋口からハッキョ創立七〇周年が勝負だと、ここでどれほど頑張るかによって東春ハッキョの未来が左右されるという覚悟で、七〇周年を目指しました。八〇〇人集まったのだから、もう失敗はないだろうと、すでに成功は手中にあると、ただ成功のレベルをどこまで上げるのか、問題はそれでした。翌年二月に実行委員会の中に事務局という六人くらいの実働部隊を作って、毎週集まりました。企画やアイデアを出して、進捗状況をその都度確認して、再分担して。県内外のいろんなところでイベントがあると聞くと訪ねて行って、東春七〇周年を宣伝させてもらいました。チラシも大量に刷って、機会さえあれば配布しました。そうすることで、どこかで私たちの話を聞いた人たちが会った人に話してくれて、またその人がほかの人に話して…。そういう波及効果で実際には会ったことのない人にまで情報が広がりました。SNSだけではない、人の口から口へと伝わることで人が集まるということを実感しました。宣伝の一方で、記念事業の内容についても議論しました。七〇周年をただ祝うのではなくて、ハッキョの未来のためにやるなら、同時に施設の補修も進めなくてはいけないのではないかと。子どもたちのために奮闘している先生たちにも給料をしっかり出さなくてはいけないのではないかと。それで行事と施設の補修、先生たちの給料保障という三本柱で募金運動を繰り広げました。ところが最初は募金がなかなか集まりませんでした。突破口を開いてくれたのが沖縄出身の日本の方でした。地元同胞のお店の常連の方なのですが、日本の中で自分たちの歴史や文化や言葉を守ろうという朝鮮学校の教育は素晴らしい、共感して敬意を表するし、賛同したいということで一五万円という大金を学校に持ってきてくれたのです。会社経営しているとかではなくて、普通のサラリーマンの方が生活費を削って出してくれたのです。それに心打たれて運動に火が付いて、同胞宅を分担して訪ね歩くようになりました。でも目標額にはなかなかとどかなくて。雨漏りする屋上の補修工事は待ったなしだし、どうするかというときに、やはりカギは同胞でした。同胞に相談すると業者を紹介してくれて、いろいろアイデアを出してくれました。予算がないので、解体から備え付けまで専門的な部分以外は、同胞たちがハッキョに出て作業しました。そうして施設が改善されると何よりも児童たちが喜んでくれました。
いつも三階の講堂で練習する舞踊部は、雨が降ると雨を受けるバケツを置いて練習していました。それでもところどころ床が腐りかけていました。子どもたちを育てるためには施設も大切なんですよね。先生たちの給料も、十分とはいえないまでも一定額渡せるようになりました。その過程で、一人では大したことはできないけれど、集まれば大きな力になるということを、これまでも言葉では知っているつもりだったのですが、実践を通じて知りました。一人では途中であきらめてしまいそうになるのですが、一緒だと力づけたり力づけられたりして、何とかやり遂げられたのだと思います。もちろんこの間、実行委員の間で意見の相違もあったし、時には気まずい雰囲気になったこともありました。やはり人間というのは難しいです。目的や目標ははっきりしているのですが、手段や方法、こうしたいというのはみなそれぞれ思いがあって、そこで必ずぶつかるんですよね。我が強すぎると、力が分散してしまうし雰囲気も悪くなる。そういうことは何度かありました。それでも大きな目的と目標があるので、乗り越えられました。今振り返ると、そういう過程を通じて得た成果が大きかったということです。同胞社会の未来である子どもたちのためにできることはなんでもしようということで一年間頑張れたと思います。
金結果、七〇周年の記念行事(大祝典)にはどれくらいの人が集まったんですか?
李一六〇〇人が集まりました。これほどの数字は想像もできませんでした。一応千人を目標にしていましたが、当初は実行委員長の私も心の隅っこで、本当に集まるのかな、千人来なくても一生懸命すればそれでいいじゃないかと思っていました、それが現在のレベルだと。でもやる過程で、七〇周年のうわさが広まって、「行くよ」「何時から?」という声がいろいろな所から聞こえて、募金運動にもいろんな人が賛同してくれるようになって、一か月前には千人は越すなという手ごたえを感じるようになっていました。ハッキョ施設の改修にもいろんな人が出てきてくれて、当日の食券もどんどん売れて。もう一つよかったのは、記念公演に参加してもらった愛知県内の文化芸術同盟や吹奏楽団、各地の青商会会員やその家族も来てくれたことです。それで相当数がプラスされました。実際に入り口で数えた人数が千四百人余り、それに児童や出演者、実行委員や最後のほうに来場した人を入れて千六百人前後、うち日本の人が四百人でした。
久しぶりにハッキョに来たという高齢者の方も驚かれていました。「どこからこんなに人が来たのか」と。この十数年、県本部や他校の行事でもこれほどの人が集まったことはありませんでした。私はもちろんですが、ほかの実行委員たちも人の多さに驚いていました。自分たちの知らないところでいろんな力が作用したということです。ムーブメントが起きたんです。伝播したんですね。これを起こすためには、中心となる人たちの固い決心、言葉も大切ですが、それに伴う行動がそれ以上に大切です。そして同胞たちがそういう行動に応えてくれたということです。同胞たちにまだ大きな力があるということです。決して小さくない。
解決のカギは同胞の中に
顔を合わせて思い伝えること
金戸別訪問が大切ですか?
李そうです。チラシだけではだめで、携わっている人たちの熱い思いを伝えることが大切なんです。思いが伝わることによって行事にも来てくれるし、お金も集まるのです。気持ち、思いが大切です。会っていくらいい話をしても、話す人が日ごろどういう人なのかということも大切で、日ごろの生活態度が問われるんですね。同胞たちはよく見ています。今回の実行委員たちは日ごろから一生懸命な人たちなので、同胞たちもそれに応えてくれました。同胞を信じて、同胞に思いを伝えることで、同胞社会の未来は開けるのだと学びました。昔朝鮮の映画「朝鮮の星」で、抗日武装闘争中に、金日成将軍が厳しい時ほど人民大衆の中に入れと、そこに答えがあると言っていましたが、学生時代は何を言っているのか意味が分かりませんでした。
金実感がありませんよね。
李一年間にわたって行われた六つの記念行事(大祝典では一六〇〇名参加)、屋上防水工事、トイレ改修工事などの校舎補修事業、記念アルバム、記念Tシャツ、記念DVD、記念広告集の発行、総予算二三〇〇万円の募金を成し遂げた過去類例を見ないこの壮大な七〇周年記念事業を終えて改めて思うのは、常に同胞の中に答えがあるし元気の素があると、そして未来もあるということです。
金分会代表者大会でも表彰されましたね。
李東春ハッキョ七〇周年の行事が「朝鮮新報」にも紹介されて、少し評判になりました。そういうこともあって、よくやったということで表彰されたんだと思います。千葉などほかのハッキョでも創立記念を祝う行事に千数百人集まったという例はありましたが、東春の場合は初級部だけの単設のハッキョで、校区内の総聯支部は東春と守山、東濃の三つありますが、守山支部や東濃支部は規模が小さくて、実質的に東春支部が中心になって七〇周年事業を進めました。一つの支部を中心に一つのハッキョを支えてあれほど多くの人を集めて盛り上がったということへの評価だと思います。東春支部には四つの分会があって、今回の行事では主に三つの分会が積極的に動きました。表彰された下原分会は、七〇周年行事に加え、私の知る限りでも四十数年にわたって一度も途切れることなく毎月集まりをしてきました。長年、ハッキョのためにも頑張ってきました。そういうことへの評価だったと思います。
金数十年にわたって毎月欠かさず集まりをしてきたというのはすごいですね。
李すごいことです。今の分会長が六〇代前半の方なのですが、二〇年以上分会長を務めています。親睦を深めるのが主な目的ですが、そうして集まることが、ハッキョを支えるための活動にもつながります。
金分会委員は何人いるんですか?
李今は六人ですね。月一の集まりには、分会委員というわけではなく、主にオルシン(長老)たちが集まります。分会長が家の離れを改装して分会に提供してくれていて、そこに集まります。支部委員長と分会長が一言ずつ話しをして、雑誌「イオ」なんかを配って、雑談して、食べて、頼母子をするという集まりですね。
金分会の年代はどういう構成になっていますか?
李伝統のある分会ですが、今積極的に出てきている人たちは七〇歳前後です。その下に五〇代が一人か二人、四〇代が分会委員をしている四人ですね。とはいえ月一の集まりにいつも出る委員は私だけです。今年三月に初めて分会委員会を開きました。これを数か月に一度開こうということなのですが、まだ定例化できないでいます。
金今は、ハッキョ保護者の年代の青商会が活発に活動していますが、青商会を卒業したあとの受け皿の問題があるようです。
李そうなんです。下原分会には現在青商会OBはいませんが、ほかの分会でOBたちが分会に出ているかというと、参加率は高くないと聞いています。花見や忘年会には出てくるのですが、そこらへんの世代をどう捕まえるのかというのは課題ですね。
金様々な年代を総動員しないと保護者の力だけではもうハッキョを支えきれないと思うのですが。
李厳しいと思います。子どもが初級部を卒業すると、愛知中高のほうに気がそれて地元のハッキョへの関心が薄れていくんですよね。中高は、距離的にも遠いし、子どもが成長した分だけハッキョとも距離を置くようになります。でも今年はアボジ会の前会長がアボジ会の相談役として残って、教育会の理事も引き続き引き受けてくれています。いい傾向もみられます。今の教育会長も子供が卒業してかなり経つんですが、それでも引き続き会長を務めています。そうしてOBでもハッキョとかかわってくれる方がいるから、七〇周年事業を成功させることができました。
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