祖父母、父母の思い、次世代に伝え、在日同胞社会に根を張って生きる
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ハッキョ教育会理事として
HPやFB制作も
李そうです。でもそのしんどさの中の小さな喜びとか楽しみ、達成感が忘れられないのです。その延長線上で、総聯で活動するようになると、朝青のように毎週同胞宅を訪ねることはなくなりました。最初は物足りなさもあったのですが、そのうち楽だなと思うようになりました。朝青の頃に結婚して引退後子どもが生まれ、その間も総聯支部の常任委員として毎月支部や分会に出たりするのですが、子どもが幼稚班に通うまで三年くらいハッキョとの関係にはブランクが生じました。その時に、総聯の活動をしている私でもハッキョとの間に距離が生じるのに、支部にも分会にも出ていない同胞はどうなんだろうと考えました。でも子どもが通うようになると、自分の子どものためにも一生懸命ハッキョに関わるようになるんですよね。やはりハッキョに関わることが大切なのです。
自分の子供がハッキョに通うようになると教育会の理事を任されてハッキョの運営にかかわるようになりました。この時ハッキョの財政の厳しさを初めて知りました。ハッキョは本当に火の車でした。それまではハッキョは厳しいけど何とかなっているんじゃないかと思っていたのです。でも実際には教員たちの給料が何か月も未払いになっていたり、想像以上の厳しさでした。とりあえず月々のこずかいから出していた一口運動の額を毎年増額していきました。焼け石に水ですが、自分がそうすることで、続いてくれる人がいればと思ったのです。でもそういうわけにはいきませんでした。誰しも子供が大きくなるにしたがって出費は増える一方だし、仕事もいつもうまくいっているわけでもありません。それが難しいことは、今振り返れば理解できます。当時はまだ若かったし子ども幼かったですから、生意気なことを言ったかなという思いがあります。
金一口運動は今も続けているのですか?
李できる範囲で。以前は少しずつ貯めて一定の金額になればハッキョに持っていって幼稚班のおもちゃ購入に充ててもらったり、毎月ハッキョに科学雑誌など本を寄贈したり、いろいろ試みました。空手の道場を、当初は公民館を借りてやっていたのですが、その後総聯支部の事務所でするようになりました。ハッキョの近くなので、東春ハッキョの児童たちも通うようになって、月謝の一部をためてハッキョに定期的に寄付するようにもしていました。もちろん私だけではなくたくさんの同胞たちがハッキョに役立ついろいろな物品をもっていったり、先生たちを食事に招待したり、それぞれのやり方で今もハッキョに貢献しています。
金ウリハッキョを支える為にはいろいろなことが必要ですから。
李理事になって今の校長が教務主任の時に、ハッキョのホームページをリニューアルしたいので手伝ってほしいと相談されました。二〇〇六年くらいだったと思います。以前からホームページはあったのですが、担当の先生が退職した後は放りっぱなしになっていました。それで新しく始めようと言うことでそれまでのホームページを削除して、ソフトを購入し、学校の宣伝ではなく、子どもたちの生き生きした姿を紹介するというコンセプトで新しくデザインすることにしました。それまでは学期末に新聞をもらいましたが、時間が過ぎてしまうと感動が薄らぎます。当時は、スマホはまだでしたが、家庭にインターネットが普及した時期でした。各家庭で学校生活を見られるように、先生たちが子どもたちの写真を撮って、先生たちが毎日更新していました。そうすると保護者はもちろんなのですが、ハラボジやハルモニも喜んでくれるんですよね。そうしてハッキョを広く宣伝していくことにしました。四年ほど前からは、フェイスブックに切り替えました。こうした活動を通じて、愛知の中で東春ハッキョが少しずつ注目されるようになりました。ウリハッキョを知らない人や、少し距離を置いていた同胞、募集対象がこれを見て興味を持ってくれるかもしれない。これをきっかけに直接会って生徒募集につながっていけばいいなと考えています。
中級部統合で低迷した地域
息吹き返した六五周年行事
李二〇〇六年に、それまであった中級部が愛知中高に統合されました。生徒数が減り、ハッキョがなんとなく寂しい雰囲気で暗くなってしまいました。東春ハッキョ創立六〇周年を迎える年でしたが、記念行事もできないような状況で。夏に開催しているサマーフェスタ、年間で一番大きな行事なのですが、その参加者も単設初級学校になった後はだんだん人数が減っていきました。十人以上いた教育会理事も、いつの間にか五人くらいになってしまって。二○一○年のサマーフェスタは歴代最低でした。参加者は二五〇人ほどで、アジュモニ(おばさん)たちからは料理がまずい、つまらないと言われて。さらにハッキョに入る収益金も全然なくて。裏方で走り回りながらもこんなに報われないのならいっその事サマーフェスタ自体やめてしまおうと言ったのですが、校長先生はハッキョの保護者でない同胞たちも集まれる地域の一番大きな行事なのに無くすわけにはいかないと。翌年(二○一一年)はハッキョ創立六五周年だから実行委員会も作って再起をかけて取り組んでみようと。それで翌年のサマーフェスタを六五周年行事にしようということで、五月に実行委員会を立ち上げて、準備期間を通常の二倍にして懸命に準備しました。すると努力の甲斐あって五五〇人が集まりました。前年の倍近い人数でした。人の多さに、身体は疲れていたのですが清々しくて、あの時の爽快感は人生の中で最高でした。やった分だけ成果が出たと思いました。これほどはっきりした成果を目の当たりにしたのは初めてでした。あれほどの感動はなかったです。この時、しっかり準備して企画すればできるのだということを学びました。感動が大きかったので、この勢いで行くぞと頑張れました。
金準備の大きな違いは同胞宅の戸別訪問ですか?
李この時は、戸別訪問はあまりできなくて、中心になる人々が一生懸命やることで回りもそれに巻き込まれていい意味で波及効果が生まれんだと思います。東春地域は分会活動が盛んなので、中心になった人たちの熱意が分会などに伝わったんだと思います。ハッキョで卒業生にダイレクトメールを送ったりもしました。
それまではサマーフェスタの準備を教育会の理事だけでやっていました。六五周年の前年は、会長を支部委員長が、副会長を私ともう一人が、それに校長が加わって、料理はオモニ会に丸投げ。舞台でやるイベントは例年通り。祝杯の後は歌舞団に任せればいいかと。代わり映えもないし、それで面白いはずがないんですよね。もちろん児童たちの公演はありましたが。でも六五周年の時は、各支部の常任委員や商工会の理事たち、朝青、アボジ会、オモニ会から二〇人近い実行委員たちが集まって頭をひねりました。特別な企画案が出たわけではないのですが、それでも例年とは違って面白いと反響がありました。
金いろんな人たちを巻き込むことが大切なんですね。
李そうなんです。ハッキョの行事をハッキョだけでやるというのは、もう無理なんです。全同胞を巻き込まないと人も集まらないし、盛り上がらない。遅ればせながら東春ではその時に悟ったのです。翌年もその翌年もこの勢いを維持してもっと人を集めようと、努力した結果、五五〇人が六五〇人、その翌年には七五〇人を超えて、七〇周年の前年に八〇〇人を越えました。わずか五年前は二五〇人だったのに、それがいつのまにか三倍以上。駐車場が足りなくなって大変でした。場内も熱気と活気があって。過去十数年間、東春でこれほど同胞が集まったことはありませんでした。
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