【発掘資料】4.24教育闘争から69年:草創期の民族教育のあゆみ(上)
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■発掘資料■
故金太一君の遺族訪問記:一人の犠牲が百人の戦いを
五日[一九四八年六月]午後二時、記者は大阪教育弾圧で犠牲になった金太一少年の遺族を訪ねた。
布施市自由商人市場の片隅にあるバラックで、金太一少年の祖父と母、妹に会った。
記者の慰問の言葉を黙って聞いていたオモニは、服の裾に顔を埋め、涙を流しながら「あの子は本当に哀れだ。六歳の時に父を亡くし、勉強も皆みたいにさせることができず…」。言葉を詰まらせた。
問・「いつまで学校に行ったのですか」
答・「学校ですか! 小学校四年の中間でやめて、その日から七人家族を食べさすために工場に行ったり、タバコを売って、朝早くから夜まで、死ぬ思いで働きました」
問・「あの日は…」
答・「今日は人民大会に行くの? と聞いたら、行かないと。母に心配をかけないようにと。友だち同士では『再び、日本人が私たちの学校をできなくするというので、今日の人民大会には誰が死ぬかやってみよう』と、行ったようです。」
記者・「太一君は親孝行で、国を心から愛した青年だというのに…」
オモニ・なんだかんだ言って、死は無駄ではなかったと思います。たとえ百歳生きたとしても何の役に立てなかったら…」
記者は言葉を探せず、「太一君は私たちの心の中に生きています」と言って席を立った。
太一君の弟と妹もかれの死を肝に銘じオモニによって立派な愛国者になることを信じ、家を後にしながら「一人の犠牲が百人の戦いを呼び起こすことを奴らは知らないようだ…」と、一人かみしめた。
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