【発掘資料】4.24教育闘争から69年:草創期の民族教育のあゆみ(上)
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二、4・24教育事件
今からちょうど三十年前[注・執筆当時]の一九四八年、朝鮮人民の真の祖国―朝鮮民主主義人民共和国が創建されてから、在日朝鮮人の民主主義的民族教育は重大な危機にうちかって大きな発展を遂げた。
この年、アメリカ帝国主義と日本の反動支配層によって、海外同胞教育史にその類例をみない流血的な暴挙であった4・24事件が起こったにもかかわらず、在日同胞は民主主義的民族教育の面で輝かしい成果をかちとった。
4・24教育闘争は、在日同胞が、その子弟に対する民主主義民族教育を抹殺しようとした米日反動支配層のファッショ的な弾圧を退け、民族教育の自主性を守り抜き、朝鮮民族の誇りを輝かせた正義のたたかいである。
これは、四月二十四日の一日限りのたたかいでもなく、また、もっとも熾烈にたたかわれた神戸、大阪地方だけのたたかいでもなく、一九四八年一月から五月にかけ、朝鮮人の自主学校があった日本各地において行われた、海外同胞教育の歴史の上に永く記録されるべき画期的な教育闘争であった。
三つの教育方針
一九四五年九月、南朝鮮占領したアメリカ帝国主義者の侵略的な策動の露骨化によって、祖国への帰国をしばらく断念せざるを得なくされた在日同胞は、長期にわたる日本在留を想定して、次のような三つの教育方針を打ちだした。
その第一は、自主学校の施設・設備の充実と教育財源の確立で、県単位に学校管理組合を組織し、それを次第に全国的連合体に発展させること。
第二は、教育体制の確立で、朝聯中央並びに地方機関内の教育専門部署をいっそう強化し、そこで教育行政に関するいっさいの企画・指導・監督などを行うこと。
第三は、教育内容の充実で、朝聯と教材編纂委員会及び教育者同盟の三者の有機的な連携のもとに、教材出版の完成と迅速な配布、教授法の革新、教員の実力向上を図ることなどが打ち出された。
以上の民族教育の基本活動方針は、直ちに実行に移されていった。
まず、自主学校の施設・設備の充実と教育財源の確立のために、対内対外的に最大限の活動を繰りひろげて大きな成果がかちとられた。
例えば、一九四八年四月一日現在で、初等学校は五百六十六校に達し、その学生数は五万八千九百三十名、教員数は千二百二十九名にのぼった。また、中等学校は七校に増え、その学生数は二千四百十六名、教員数は六十五名に増加し、合計五百七十三校、学生総数六万一千三百四十六名、教員総数千二百九十四名を数えるに至った。
さらに、東京と大阪に設立された二つの師範学校が教員養成にあたっていた。
その他に、青年(高等)学院は三十二名、その学生は千七百二十六名、教員数は百二十九名となっていた。
これらは、一九四八年において、在日同胞の民主主義的民族教育が海外同胞教育史上、最高の発展を遂げていたことを示す輝かしい記録である。
以上のように、日本全国各地に建てられた在日朝鮮人の自主学校では、学校ごとに管理組合が組織され、学校運営の合理的な基盤が次第に築かれていった。
そして、各学校の管理組合は、次第に県単位の管理組合連合会を構成していったが、まだ学校管理組合全国聯盟体を構成するには至らなかった。
つぎに、教育体制の確立を図るため、教育委員会を組織し、教育規定を実施して、自主学校の全体的な機構の統一並びに秩序ある教育行政の土台が築かれていった。さらに、教育体制の完全を期して、全国的に学校の統合整備が推し進められた。
第三の教育内容の充実のためには、まず教材出版に全力が傾けられた。
財政難、人材不足、印刷上の諸問題など数多くの難関を克服して、教材編纂委員会がいっそう強化された結果、一九四八年だけで、二十四種にのぼる教材を約三十万部も出版するという驚異的な成果が収められた。
教育方法の改善も図られた。
自主学校の施設・設備が整えられ、質の高い教材が保障されたばかりではなく、教員の資質向上が進められ、旧来の書堂式―寺子屋式教育方法が一掃されるに至った。
さらに、教育内容の充実―自主学校の質的向上のために、教員の実力向上に力が注がれた。
朝聯四全大会の直後に、朝聯中央師範学校が新たに東京に設立され、教員の新規養成にあたって第一回卒業式六十名を出している。(本誌36号参照)
三十二校におよぶ青年(高等)学院でも、一般活動家の養成ばかりではなく、教員の実力の向上に力が傾けられた。
講習された科目は、国語、国史、哲学、経済学、社会発展史、音楽、教育学、心理学、学校運営、時事問題、児童心理学、朝鮮問題、数学、物理、体操、気美術、工作などである。
講習が持たれたのは、東京、大阪、山梨、長野、岡山、愛知、京都、山口、神奈川、茨城、新潟、埼玉などであった。
講習の延べ時間は三百九日余に達し、講習にあたった教員数は百三名、受講生数は五百六十名にのぼった。(余としたのは未報告の茨城の分を含めたからである)
以上でもわかるように、一九四八年に、在日朝鮮人の民主主義的民族教育は、様々な難関を乗り越えて大きな発展を遂げたのである。
民族教育抹殺に乗り出した米占領軍
在日同胞が自主的に民主主義的民族教育を実施することは、子弟教育によせる民族的な願いと愛国的な意志を反映した正当な事柄であり、日本国憲法とそれに基づく教育基本法、さらに国際法や国際慣例に照らしてみても、きわめて正当な事業であった。
ところがアメリカ帝国主義者は南朝鮮を占領した後、全朝鮮を植民地化しようとする侵略策動を露骨に推し進め、朝鮮民主主義人民共和国に対する敵視政策の一環として、在日同胞子弟の民主主義民族教育の弾圧、圧殺を図ったのである。
当時、在日同胞は、一九四八年四月に持たれた南北諸政党社会団体代表者連席会議を熱烈に支持する一方、アメリカ占領軍当局者が画策した「5・10単独選挙」に反対してたたかっていた。
これに対して、アメリカ占領軍当局と日本の反動支配層は、在日同胞の民族的団結の場である民族教育の弾圧を強行してきた。
一九四八年一月二十四日、アメリカ占領軍当局の指令に従って、日本当局は、文部省学校教育局長名義で文部省大阪出張所および全国都道府県知事あてに、「在日朝鮮人子弟に日本の教育を実施せよ」という公文を発送する一方、朝聯ならびに民族教育の関係者に「朝鮮人は日本の法令を遵守する義務があるから、学齢に達したものは、知事の認可を受けた学校に入学させねばならないし、教科書及び教科内容は、学校教育法を守らねばならない」と通告した。
こうしてアメリカ占領軍当局と日本当局は、在日同胞の自主的な民主主義的民族教育を公然と否認し、自主学校閉鎖に乗り出してきたのである。
在日朝鮮人は、この通達が、各民族の民主主義的発展と自主的な教育を保障する「ポツダム宣言」に違反するだけでなく、民族の自主性を尊重し、民族文化の発展でもって世界文化の向上を期し、国際親善と平和を期する国連憲章を踏みにじると同時に、日本国憲法とそれに基づく教育基本法の精神にもおとるきわめて反動的なものであることを指摘し、日本政府当局に在日朝鮮人子弟の民主主義的民族教育の実情を正しく理解し、朝・日両民族の将来と民主主義的民族文化の発展のために、この不当な通達を撤回するよう求めた。
しかし日本当局は、都道府県知事あてに、日本学校の校舎を借用している在日朝鮮人の学校についてはその校舎の返還を迫ること、各朝鮮人自主学校の私立学校認可申請を三月末までの期限付きで出させること、などを要求した。
弾圧に抗して
在日同胞が結集して、民主主義的民族教育の権利を守るたたかいに立ちあがったのは勿論である。
三月六日、在日朝鮮人は、
- 朝鮮人の教育は朝鮮人の自主性にまかせよ。
- 日本政府はわれわれの教育の特殊性を認めよ。
- われわれの教育費を国庫負担せよ。
- われわれの教育機関にも差別なしに物資を配給せよ。
- 占領軍から出る教育資料をわれわれにも公平に配給せよ。
- われわれの教育にたいして絶対に干渉するな。
以上六つの要求を盛った決議文を日本政府に提出して確答を要請したが、なんら誠意ある回答は得られなかった。
事態は厳しく展開し三月二十三日、在日朝鮮人は二十五名からなる「教育対策委員会」を結成して、必死の活動を繰りひろげた。
しかし情勢はいっそう厳しさを増し、地方によっては学校閉鎖令が下される事態まで生まれるに至った。
三月三十一日、山口、兵庫などで朝鮮人自主学校の閉鎖命令が通告されたし、神戸では日本学校の校舎を借用していた三校の閉鎖と校舎返還が命じられた。
四月八日、岡山県で学校閉鎖令が通告された。
四月十二日、大阪府下では、六十余校の朝鮮人自主学校のうち、日本学校の校舎を借用していた十九校に閉鎖命令が通告され、四月十四日には強制執行するという事態がかもしだされた。
四月二十日、東京都下で朝鮮人自主学校十四校に対して学校閉鎖令が通告された。
これらに対して、三月三十一日、山口県下では憤激した同胞たちが学校閉鎖命令反対大会を開き、一万余名が県庁を取り囲んで二十四時間に及ぶ闘争を繰り広げ、日本の民主団体の代表をまじえた交渉委員が夜を徹し、学校閉鎖命令撤回を強く要求した。
その結果、山口県では自主学校の実情を再調査して適切な方法をとるとの回答を引き出し、実質的に学校閉鎖命令を一時取り消させる大きな成果を勝ち取った。
四月十六日、朝聯岡山県本部委員長が闘争中に検挙されるという事件が起こり、四月十八日、憤激した同胞八千名が県庁を包囲して大衆的な闘争を力強く繰り広げた。そして要求条件四項目を県知事に認めさせる大きな成果を収めた。
その要求条件四項目の内容は、次のようなものであった。
- 学校閉鎖令を撤回せよ
- 朝鮮人教育の自主性を認めよ。
- 教育費を負担せよ。
- 今後、朝鮮人教育問題は、三者(朝聯、日本民主団体代表、県当局)の協議に寄る。
同じ四月十八日、中央教育対策委員会は、民主主義的民族教育の自主性保障の内容を四つの条件にまとめ、日本政府がこの条件を認めるならば、学校教育法による私立学校としての認可手続きをとる用意がある、と日本の首相に伝えた。
この四つの条件とは次の通りである。
- 教育用語は朝鮮語とする。
- 教科書は朝鮮人教材編纂委員会が編纂し、日本占領軍総司令部情報教育部の検問を受けたものを使用する。
- 学校の経営管理は学校管理組合でする。
- 日本語を正科として採用する。
これを各国の通信社を通じて世界に公表するとともに、往復葉書に印刷して日本の各界の人士の意見を調査したところ、回答のあった千余名中、五、六名を除いてみな、その正当性を認め、在日朝鮮人の民族教育の自主性を守るたたかいの勝利のために、暖かい激励が寄せられた。にもかかわらず、アメリカ軍当局と日本政府は、この正当な要求を認める代わりに流血の弾圧をもって応えてきた。
仮面をぬいだ「解放軍」
四月二十三日、東京軍政庁教育担当将校名義による「在日朝鮮人に警告する」という威圧的な声明書が発表された。
この声明書の基本的内容は、日本全国各地で朝鮮人教育問題で紛争が生じている事態は、政治的意図をもった少数朝鮮人指導者の煽動によるものである、したがって朝鮮人少数悪質指導者は事件の責任を負わなくてはならない、という不当きわまるものであった。
同じ四月二十三日、大阪在住の同胞たちが学校閉鎖令反対の大会を開いてたたかいを繰りひろげたが、それに対してアメリカ軍当局は武装した日本警察四千名を動員し、野蛮な弾圧を下して二百十三名の同胞を逮捕し、六十名に負傷をおわせ、そのうち五名を危篤状態におとしいれた。
四月二十四日、神戸では在日同胞三万名が大衆的なたたかいを繰りひろげた結果、県知事が、
- 学校閉鎖令は撤回する。
- 借用している日本学校の校舎明け渡しは延期する。
- 十五日に検挙された六十五名は即時釈放する。
- 今後のことは両者より代表を出して協議する。
- 本日交渉会場にたいする責任は朝鮮側に課さない。
という以上の事項に調印して、事態の円満な解決をみる大きな成果を勝ち取った。
ところがアメリカ軍当局は四月二十五日、この学校閉鎖令撤回の無効を一方的に宣言したばかりか、兵庫地区に「非常事態宣言」なるものを公布し、第八軍司令官アイケルバーカーを横浜から神戸に急派し、その陣頭指揮の下に在日同胞に対する野蛮な弾圧―「朝鮮狩り」を敢行したのである。
数千名の武装警官と多数のアメリカ軍憲兵が在日朝鮮人を手当たりしだいに、無差別に検挙し、四月二十八日午後五時現在、千九百七十三名を不当逮捕するという暴挙をあえてした。
さらに彼らは、兵庫をはじめ、各地の同胞とともに力強いたたかいをくり広げた大阪在住の同胞に対しても流血の弾圧を加えた。
四月二十六日、四万余名の同胞たちが大阪府庁前で大会を開き、学校閉鎖令の撤回を要求した。
しかし、京都第一軍団スウィングの「朝鮮人との面会は即時うち切って府庁前の群衆を換算せよ。応じない時はポンプもしくは火器を使用せよ」という野蛮きわまる指令を受けて、大阪府当局は朝鮮人代表との面会を拒絶したばかりか、「代表者は一分以内に撤去し、四万名の群衆は五分以内に解散しろ」という物理的にも到底不可能な要求をつきつけ、解散しはじめた同胞に消防ポンプで水を浴びせる暴挙をあえてした。
そして、憤激した人たちが抗議すると、今度は武装警官がピストルを乱射し、とびかかって殴打を浴びせるという蛮行をはたらいた。
こうして、十四歳の少女金花順さんが頭部をこん棒で割られて重傷を負ったのをはじめ、数百名が重軽傷を負っただけではなく、十六歳の金太一少年は後頭部からの貫通銃槍で同夜十一時四十分に死亡するに至ったのである。
また四月二十七日、アメリカ軍当局と日本当局は東京で、在日朝鮮人の自主学校十四校の管理責任者並びに学校長合わせて十六名を不当に逮捕したりした。
以上のように、事態は極めて厳しく展開した。(以下、次号)42
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