映画「ウリハッキョ」公開から十年:朝鮮学校守る同志でありたい
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ソウルと地方で支援コンサート
「受け入れられる」と実感
金二〇〇七年の東日本大震災を機にモンダンヨンピルの活動を始めましたが、「ウリハッキョ」の公開後、やっと一息ついたころではなかったですか?
金監督私はもともとカメラマンで「ウリハッキョ」という映画は本来私の人生の計画にはありませんでした。ところが「ウリハッキョ」が好評を得て、ウリハッキョに込められなかった同胞の話を映画にしたいと思うようになりました。そのためにはお金も必要で、生活も正常に戻す必要がありました。そのためにまた撮影監督に戻って仕事をしながら、次を模索していたころでした。
そんなさなか「グラウンドの異邦人」という映画を作ろうというオファーが来て準備に入っていたところ、地震が起きたのです。震災復旧にも時間がかかりそうで、何よりも暗い雰囲気の中で映画を撮るのは難しいということで映画製作がしばらく延期になりました。
一方私は、テレビのニュースで被災地の壊滅的な映像を毎日見ていました。北海道のハッキョと東北のハッキョは距離的にも近くて、関係の深い学校でした。北海道のベテラン教員はみな東北の寄宿舎出身で、酒を飲むといつも東北ハッキョの話をしていました。結婚して北海道に来たという同胞も多くて。毎晩ニュースを見るのですが同胞のことは何一つ報じられずに、ツイッターやフェイスブックを通じて伝わってくる様子は、あまりにも厳しくて辛くて、それを見ながら彼らのことしか考えられませんでした。
何かしなくてはと、集まって何かしなければと思って、三月二四日にクォン・ヘヒョ先輩や友人たちに電話して、翌日に十数人が集まりました。二〇〇〇年以降朝鮮学校と何らかの形でつながった人たちでした。何かアクションを起こさなくてはと思っていたのは私だけではなかったようで、コンサートを通じて支援活動をしようということになりました。この時私は長くても二~三か月かなと思っていました。ところがクォン・ヘヒョは、朝鮮学校を知らせるいい機会かもしれない、とりあえず一年間やろうというのです。毎月一回持続的にコンサートをしていろんな人がウリハッキョを知るチャンスを作ろうと、マスコミにも知らせて、毎回出演者を変えながら。それも誰もが知っているミュージシャンを。
金出演者を探すのが大変ではなかったですか?
金監督あの時は東日本大震災の復興支援コンサートがあちこちで行われていて、ミュージシャンも積極的でした。
実際に一か月に一度コンサートをするというのは簡単なことではありません。終わると次のコンサートの準備に追われて、スタッフはみな自分の生活を顧みる余裕もありませんでした。周りはみな大変だなと思っていたようですが、実はこの間本当に幸せでした。ソウルでの一か月一度のコンサートに加えて全州、大邱、光州、仁川、高陽、済州の六つの地方で一千人以上の規模のコンサートをしました。その時のコンサートのタイトルが「ソプンコンサート」でした。ソウルでのコンサートは「クォン・ヘヒョとモンダンヨンピル」というコンサートで。だから一か月に一・五回コンサートを開いていたいのです。ソウルではこじんまりと、地方では大々的に。コンサートをやるたびに「通じる、朝鮮学校の問題は同胞が思っているよりもずっとやさしく受け入れられる」と実感していました。
金地方でのコンサートはどんな内容だったのですか?
金監督朝鮮学校はこうして作られた学校です。ところが半世紀以上、私たちは分断のせいで目を背けるしかありませんでした。しかしもうそんな時代は過ぎました。今こそ知るべき時です。震災だけでなく彼らを知るべきです。そして統一をアピールしました。
コンサートというのはミュージシャンによって成功が左右されます。一回目と二回目は有名な人に頼んだのですが、三回目からは様々な団体が加わって行われました。李明博政権以降、「統一」という言葉を簡単に口にできない雰囲気があって、そんな中でこれほど大きな文化イベントをするというのは、統一団体も驚くことでした。なのでいろんな団体が参加を申し出てくれて。
良い出会いの仲介者になろう
「モンダンヨンピル」の誕生
最後に東京でソプンコンサートをしたのですが、あれは第一回ではなくて、七回目の地方コンサートということでした。東京でのコンサートを終えて、コンサートを見た大阪の同胞が大阪でもやろうと言ってくれたのですが、正直私は自分の生活に戻りたい気持ちもあり、一番いい時にやめるのがいいのではないかと思っていました。
ところがせっかく朝鮮学校と縁のある人たちが集まったのだから団体を作って正式に登録もして、会員たちが運営する団体にしよう、今までしてきたことをこれからも続けていこうという話が出て。代表三人が「ここまでにしよう」といえば終わる話だったのに、急にクォン・ヘヒョが「そうだな、やらなくては」と言ったせいで続けることになったのです。
金クォン・ヘヒョさんが熱心だったんですね。
金監督そうです。クォン・ヘヒョがいつも一生懸命なんです。この団体を発展させて、同胞たちと会ったことのない人たちと同胞の良い出会いのチャンスを作る団体を作っていこうとクォン・ヘヒョが。二〇一二年六月に東京でコンサートをして、その後団体を設立して、韓国の人たちと同胞の出会いのチャンスをどのように作っていこうかと話し合って、ソプンコンサートをして、そのあとモンダンヨンピルの仲介のもとで韓国の人たちとその地域のウリハッキョの児童生徒や同胞が交流するということにしようということになりました。
周りでは、「金儲けのための出会いや、意図せずに互いが心に傷を負うような出会いにはならないか」「民団の同胞を先に合う のか、総連の同胞を先に合うのかによって同胞社会の印象が、韓国系の学校か朝鮮学校かによって民族教育の印象が大きく違うはず」「同胞もどんな同胞に合うかによって正反対の結果を呼ぶ」…など様々な意見がありました。ところが当時集まっていた人たちは朝鮮学校を通じて同胞社会を知った人たちで、仲介者としての役割を果たせる人材でした。きっと仲介者としての役割を果たせるはずだということで。
どのように同胞たちと出会うのか、その鍵は朝鮮学校にあると私は今も思っています。ハッキョで子どもたちと顔を合わせた瞬間、冒頭で言ったように、何か新しい衝撃を受けるのです。学校で子どもたちと会う、これが一番だと思っています。
ということでプログラムを作って東京に行って、この時もコンサートの後ハッキョを訪問する予定でした。ところが実現できず、大阪でも準備が十分でなかったために実現できませんでした。
それが初めて実現できたのが広島でした。この時、校内を見学して出てくるのではなく、ハッキョの中で少し時間をかけて子どもたちと交流することが大切だと思いました。一緒に互いの目を見て話して、触れ合う時間が重要なのです。先生やオモニ、アボジたちとも。はじめは怖さがあります。「北」という言葉とつながっているところなので。「北」という言葉との出会いをはじめにすべきかどうか悩んだこともありました。今はあらかじめ説明するのがいいと思っています。朝鮮学校は朝鮮総連の学校だ、「北」から支援を受けているし、「北」を自分たちの祖国だと思っていると。そして「どうしてそうなったのかわかりますか?」と説明するのです。それが歴史の勉強になります。気持はついていけなくても、論理的には理解ができます。ボタンの掛け違いさえなければ南北が一緒に支援できたかもしれないと。
金どうしてそうなったのかという説明では、教育援助費と奨学金の話がされるのですか?
金監督奨学金の話もします。同胞たちが最もつらかった時に南は彼らを無視したけれど、北は、政治的判断であれ何であれ、彼らに助けの手を差し伸べたと。あなたならその手をつかまないか?と。すると論理的には理解できるわけです。そうしてハッキョに行って教室や肖像画を見ると、「そうなんだな」と思うわけです。そういう準備段階に力を入れています。ソプンに行く前にはみんなで集まって私が講義をして朝鮮学校の歴史について学んだり、ハッキョの映像を見たり、どんな言葉に注意すべきか、同胞たちの耳慣れないウリマルにどんな態度で接するべきか、勉強します。同胞たちのウリマルを誤ったウリマルだと思うと、教えようという態度になります。そうではなくて、七〇年以上そこで培われた抑揚や発音の方言の一つだと思うと、例えば釜山の人とソウルの人がそれぞれの方言で話して通じるように、少し時間がたてばわかるようになる、相手が何を言っているのか耳を澄ましてよく聞いてみるようにと、そんな話をします。
金実際にソプンをきっかけに、その後もSNSでやり取りをしたり、親しくしている人たちも多いようです。
金監督そうです。ソプンというのはモンダンヨンピルや日本の市民団体が提供する組織的で公式な出会いですが、その後のやり取りについて「やめなさい」とは言えません。子ども同士がSNSでやり取りしていることを何気ない子どもの言葉から知った先生から、どう対応したらよいものかと相談を受けたことがあります。あくまで学校生活の一環なので、私たちも一緒に対応すべきだということで一緒に対応したことが何度かあります。
金それはモンダンヨンピルとの関係だけではなく、子どもたちのインターネット利用を大人たちがいかに管理するかという問題ですね。日本国内でもいろいろ問題になっています。
金監督そうです。あそこ(カフェの一角)で裁縫をしている人たちは広島ハッキョの卒業式に行くために、卒業生のオモニたちにプレゼントを作っています。私たちは行けないので、ありがたいです。これがソプンの成果だと思っています。
彼らはいつも最初に、自分たちが訪ねて行って迷惑をかけないだろうかと考えます。相手を考えてから行動に移すというのが、彼らのいいところだと思います。支援する、やってあげるといっているのになぜ? というのではなく、相手の生活空間に自分たちが割り込んでいいのだろうかと考えるという態度が出発点になっている、それが素晴らしいと思います。そういう考えの人たちが活動を続けて、ハッキョを訪ねていくのです。一度参加して続かない人も多いです。
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