映画「ウリハッキョ」公開から十年:朝鮮学校守る同志でありたい
スポンサードリンク
スポンサードリンク
チョ監督追悼映画
「ハナ(一つ)のために」
金監督実際に「ウリハッキョ」を撮り始めたのは二〇〇三年一〇月のことです。半年後に気を取り直してまた始めようと。周りには反対する人もいました。
チョ・ウンリョン監督の葬式には友人や映画関係者たち、本当に大勢の人が来てくれました。ところが、彼女がそれまで約三年の間、映画を製作するために何をどのように準備していたのかを誰も知りませんでした。知っているのは私だけでした。彼女が同胞たちと関係を築きながら、本当に大切なことをしていたのに、それをなかったことにすることはできませんでした。映画を撮る前に人間関係を築いて信頼を得ることが大切なのですが、チョ・ウンリョン監督は三年間頑張ってようやく撮影にこぎつけたところでした。
チョ・ウンリョン監督と同じ視線で同胞を見て、子どもたちを見ることはできなくても、それでも彼女のこれまでを知っている自分がやるしかないと、腹をくくったつもりだったのですが、それでも始めるまでには少し時間がかかりました。
金その間はソウルにいたんですか?
金監督夏の終わりにソウルでチョ・ウンリョン監督の追悼映画祭をしたんですが、その時に彼女を追悼する映画を上映しようということで、私が撮ることになりました。そのために七月に大阪に入りました。この時に作った映画が「ハナのために」です。八〇分の映画なのですが、ユーチューブで公開されています。三年間の彼女の同胞との出会いや悩み、大阪と北海道での追悼式の様子などが収められています。それを終えて北海道に入りました。
金では四月に一度北海道を撤収していたんですか?
金監督それまでは一週間とどまってソウルに戻って、また北海道に行ってという感じで何度か訪ねていたのですが、まだ撮影はしていませんでした。ここでとろうか、どうしようか、候補の中の一つでした。二〇〇二年九月、北海道を訪ねてすぐ後に結婚式を挙げたりもして、忙しかったこともあって、少し間が空いたりもして。
金北海道と大阪ではずいぶん雰囲気が違ったと思うのですが
金監督正直当時、私は大阪についてはよく知りませんでした。深いつながりもなかったので表面的な印象しかなくて。民族教育、肖像画、チマチョゴリ、子どもたち、聞きなれないけど美しいウリマル、というイメージ。具体的に人が思い浮かぶことはありませんでした。
私にとってのスタートは北海道でした。そこで人と出会いました。北海道・札幌という都市は光がまぶしくて、学校が広くて清潔で、いい学校だなというイメージでした。二人で作業しながら印象に残っているのは、初級部高学年の子どもたちが運動場でサッカーをして遊んでいたのですが、その中に私たちがかわいがっていたヒョンテという児童がいました。彼は少しふっくらしていて運動が得意ではないのですが、サッカー部のうまい子どもたちが、やたらに彼にパスをするのです。韓国なら、彼をチームに入れることはあっても、うまい子どもたち同士がボールをやり取りして勝負を競うのに、彼らはヒョンテにパスをして彼がゴールできるような形を作ろうと一生懸命なんです。そうして彼がゴールすると、ヒョンテ、よくやったとみんな喜んで。チョ・ウンリョン監督は、神の国をこの地に築くための小さな種になろうと考える、非常に篤実なクリスチャンなのですが、そんな彼女が「ここには神の国も必要ないみたいね」と言ったんです。彼女の言葉に驚きながら、私も「その通りだ」と思いました。初級部高学年は、自分の目で世の中を見始める時期で、韓国では競争社会に組みこまれて「勝つ」ことに執着し始める時期です。そんな年齢の子どもたちがどうして自分たちだけでああいう遊び方をするのか?このような驚きは、北海道のハッキョを撮りながら何度も感じました。
九月に初めて北海道のウリハッキョに行ったときに、遠足があって、高校三年生の先生三人と生徒たちと一緒に支笏湖に行きました。教室の外での先生と生徒の様子を見たかったのですが、友達のように過ごす姿に衝撃を受けました。教室の中の生徒同士の姿、外で生徒と先生が互いを見る視線に、心から「いいな」と思いました。私たちが韓国で受けてきた教育とはまるで違いました。先生がある生徒を特にかわいがるというのではなくて、全般的な雰囲気がそうなんですね。うらやましかったです。
チョ・ウンリョン監督は大阪でもハッキョを訪ねていたので、私たちはすべての朝鮮学校がそういうものだと思っていました。あれから十年経って、いろいろ問題を抱えていることも知りましたが、この雰囲気だけはどのハッキョにも共通のものだと、今も思います。
再び北海道ハッキョへ 生徒と先生の
何気ない気遣いに癒やされながら
金チョ・ウンリョン監督の追悼映画祭を終えて二〇〇三年九月に改めて北海道ハッキョに行ってからは、生徒や先生たちと寝食を共にしながら撮ることになったのですか?
金監督そうです。それから二〇〇五年五月まで。入学式の後、編集のためにソウルに戻ってきました。一年九か月の間、三か月に一度ビザ更新のためにソウルに行って、また戻るという生活をしていました。
金一年九か月はどんな歳月でしたか?
金監督チョ・ウンリョン監督が亡くなったことに対する衝撃が消えなくて、正常な状態ではありませんでした。一人でいるときは涙が止まらなかったりして。大丈夫だと思っていったんですが、二人で滞在していた寄宿舎の部屋に行くと、二人でいたときそのままで。そこに一人でいるのですから、大丈夫なはずがないんですよね。泣き明かした夜もあったのですが、朝起きてカメラを抱えて部屋を出ると、子どもたちが抱きついてきたりして。子どもたちも先生も以前と同様に、いつも笑顔で接してくれました。さりげなく気を使ってくれて、そんな彼らの温かさが身に沁みました。どこにいるよりも誰と一緒にいるよりも、癒されたと思います。子どもたちは全部わかっていながら普段通りに接してくれました。今振り返ると、二〇〇二年三月にチョ・ウンリョン監督に出会ってから、二〇〇五年五月にソウルに戻ってくるまでの三年余りが、人生で最も幸せな時だったのかもしれません。最もつらいことを経験して、それを克服して。現在もそれが栄養剤になっています。おかげでここまでやって来られたのかもしれません。
金濃厚な期間でしたね。
金監督あの時間がどれほど大切なのかをあの時にわかっていれば、と思うことがあります。当時の先生、生徒たち、同胞たち、本当にいい方々に出会いました。生徒の笑い声があちこちから聞こえて活気にあふれていました。
チョ監督の代理にはなれない
韓国人が朝鮮学校と出会える映画に
金編集しながら感じたことは?
金監督本来カメラマンだったので、ドキュメンタリー映画を作るのは初めてでした。関係を築いて、撮影して、編集して、世に出すまでのすべてをやることが簡単ではないと知ってはいました。
撮るときもどこに焦点を合わせるのかと悩むことが多くて、そんな時はいつもチョ・ウンリョン監督は何が撮りたかったのだろうかと考えていました。自分はチョ・ウンリョン監督の代理だと思っていたのです。だから常に彼女を背に負っているような感じでした。ところがそうして撮った映像を見ると、面白くないのです。悩みました。どうしていいかわからずに、子どもたちに「撮ってみる?」と言ってカメラを渡したことがありました。すると子供たちが撮った映像が面白いのです。それで気づいたのです。チョ・ウンリョン監督を肩からおろして、今自分が面白いと思うこと、見せたいと思うことを撮らなくてはと。そう思ってからはカメラを回すのが面白くなりました。なので「ウリハッキョ」の映像は、北海道に戻って半年くらいたってから、二〇〇四学年度のものがほとんどです。
当時は、一時間のテープをカメラに入れて撮ったのですが、そのテープが五〇〇本くらいありました。なにしろ三年分なので。
金編集作業は最後の仕上げですよね?
金監督違います。映画の場合は、プリプロダクション、プロダクション、ポストプロダクションと三つの段階を経ます。プロダクションというのは、プリプロダクションでの約束を履行する過程です。大変機械的な過程なのです。ドキュメンタリーの場合はプリプロダクションの比重が非常に大きい。カメラを抱える前のこの時点でどれほど準備をするかにかかっているのです。さらに撮影を通じてプリプロダクションを補てんしていくのです。プリプロダクションとプロダクションが混在しているということです。たくさん撮ることも大切なのですが、なかでも重要なことは初めの視点が揺らがないことです。
最も大切なのが編集です。この段階で撮った時には気づかなかったことに気づいたり、大切なことに出会ったりします。編集はまさに始まりなのです。「ウリハッキョ」も編集に一年六か月 かかりました。五百個のテープを一日一個見ると五百日かかってしまうので、二~三個は見なくてはいけません。それもただ見るのではなくて、タイムコードを刻みながら起こさなくてはいけません。日本語と韓国語が混在しているので、誰かに手伝ってもらうこともできずに、一人でコツコツと編集作業の準備だけで一年かかりました。そうして少しずつ収録したものをまた見直して、編集して、画面で見て、また手を加えて、アナログをデジタルに切り替えて…。
金その間、食事しているときも、人と会っているときも、夢の中でも映画のことばかり考えますよね。
金監督そうなんです。三年間日本にいてソウルに戻って来たのですが、ソウルでもう一度日本の体験を繰り返していました。そんな過程で、当時は大切だと思わなかったことの大切さに気付いたり…。
ウリハッキョの最初の印象はあまりにもよかったのですが、やはり人の暮らしなので、きれいごとだけではすまされないことも知りました。悩みもあるし、葛藤もあるし、その原因が内にあることもあるし外にあることもあるし。寝食を共にしながら子どもたちもカメラ用の自分ではなくて普段の顔を見せてくれるようになって、一緒に悩んで胸を痛めたこともいろいろありました。そういう部分を映画でどう表現すべきなのか、悩みました。朝高生たちが自分たち同士で集まって、祖国や自分たちの組織、そして韓国や学校について不平を言うのはごく当たり前のことだと思います。人はそういう部分があるから発展するのです。もちろんそういう場面も撮りました。生徒たちは絶対的な信頼で私にそういう部分を撮らせてくれたのだと思います。
私は韓国の観客を想定してこの映画を作りました。「ウリハッキョ」という映画でそんな場面を見たときに、徹底した反共教育を受けてきた韓国の観客はどんな受け取り方をして、反応をするのだろうと考えました。私が映画を通じて伝えたかったのは、互いが会うことの大切さでした。会えばいろんな問題を一緒に悩むことができます。会う前に欠点を知って偏見を持ってしまえば、関係は築けません。だから私は「いとおしい存在」を世の中の人に伝えようという気持ちで「ウリハッキョ」という映画を作りました。
金事実韓国で朝鮮学校に対する固定概念を崩すのに大きな役割を果たしたと思います。
金監督大多数の人には「固定概念」さえありませんでした。朝鮮学校の存在を知らない人が大多数でした。まずその存在を知らせて、次に左右どちらの考えを持つ人にもいとおしく感じられるように作らなくてはと思いました。映画を見て会ってみたいと思って訪ねていく人がいてもいいし、そのあとのことは監督が干渉すべきことではありません。朝鮮学校をめぐる問題の原因がどこにあるのだろうといろいろ考えました。韓国に原因がある場合は、その問題点を示しました。韓国は私が住んでいるところなので、知らずに見過ごしてはいけないと思いました。罪の意識をもって今からでも会うべきだと。同胞たちの問題は同胞たちが解決することで、それについてでしゃばるのは間違いだと思います。よくわからないで政権などの大きな権力が働いてしまえば、すべて壊れてしまう可能性もはらんでいます。交流を続けて互いをよく知る人々が育って、彼らが政治や行政を担うようになって助け合えるようになればいいけれど、そうではなくて強力な政治力で事態を大きく変えることは、同胞社会に好ましくない波紋を呼ぶのではないかと警戒しています。同胞社会について私たちが勉強しなければいけないことはまだまだ多いのですが、同胞たちがすべきことと私たちがすべきことがそれぞれあると考えています。互いの発展を見守りながら失敗や挫折も一緒に味わって歩んでいくことが大切だと思っています。韓国社会の民主化が進む中で、敵対感をなくしていって、少しでも多くの人達が同胞と出会えるようにするのが、私たちがすべきことだと考えています。同胞社会の中の問題は同胞同士が互いに刺激しながら変化して解決していくことだと思っています。韓国の人が、自分が少し知っているからとでしゃばる問題ではありません。
スポンサードリンク