映画「ウリハッキョ」公開から十年:朝鮮学校守る同志でありたい
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プロフィール
金明俊監督
「モンダンヨンピル」事務総長
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荷物抱えて歩いた雨の大阪
民族教育なら「朝鮮学校を見るべき」
金淑子ウリハッキョの映画公開から十年ですね。
金明俊監督そうですね。二〇〇七年公開でしたから。でも感慨のようなものは特にありません。いつもウリハッキョと一緒ですし、もう十年たったのかという感じですかね。
金日本に初めて来たのはいつですか?
金明俊監督二〇〇二年三月でした。初めてのことはよく覚えているものです。三月二二日夕方七時ころ、チョ・ウンリョン監督と雨に打たれながら鶴橋と上本町の間にある個人宅を目指して、重い鞄とカメラを抱えて歩いていました。その時食べたのが牛丼。三月末なので寒くはなかったのですが、雨が降る中重い荷物を持って、大変だったのを覚えています。
金どういう目的で大阪に?
金明俊監督チョ・ウンリョン監督が私を連れて行ったんです。私が演出と撮影を担当することになっていました。チームを連れて、ドキュメンタリーを撮る前の準備で、自分が会った人たちや学校をあらかじめ見て、やり取りするために私がついて行って、取材する様子を撮ったり、練習を兼ねて。
金チョ・ウンリョン監督は、その前に何度か日本に来ていた?
金監督そうです。二〇〇〇年一二月から行ったり来たりしながら二年間、劇映画のシナリオを書いていました。きっかけは「民族学級」でした。
二〇〇〇年6・15共同宣言発表以降、南北統一の雰囲気が高まる中、韓国のテレビが、それまで知られていなかった海外同胞、祖国の分断でつらい思いをしてきた海外同胞のドキュメントを毎日のように放映していました。ちょうど海外で勉強を終えて帰国し、長編映画デビューを目指していたチョ・ウンリョン監督が、次にどんなテーマで映画を作ろうか悩んでいたころでした。そんなときにテレビで、日本の学校で学ぶ在日朝鮮人児童のための「民族学級」のドキュメントを見たのです。主人公は講師のキム・グァンミンさんでした。彼が民団の民族教育推進協議会の活動をしながら同胞の子どもたちと接するドキュメンタリーがあったのですが、それを見たチョ・ウンリョン監督がこれをテーマにしようと日本に行ったのが二〇〇〇年一二月でした。それが始まりでした。
民族教育推進協議会の事務所で宋基燦さんやキム・グァンミンさんとあって、キム・グァンミンさんが「民族教育を知りたいなら朝鮮学校を知るべきだ」と言って、東大阪中級学校のハン・ブテク校長を紹介してくれたそうです。
金キム・グァンミンさんは総連ではなく、民団で活動なさっていたんですよね?
金明俊監督大阪では民族教育をする人たち同士の交流があったようです。私も民団で長い間教育に携わった人たちに会うたびに「朝鮮学校を知らなくては」とよく言われました。認めるところは認めているのです。キム・グァンミンさんの紹介もあって、ハン・ブテク校長はチョ・ウンリョン監督に自由に学校を見てもよいと許可しました。そこから朝鮮学校の取材が始まったのです。
シナリオも、本来は民族学級の講師と韓国から来た留学生との恋愛をテーマにしていたのですが、朝鮮学校に来たあとは、朝鮮学校の男性の先生と韓国から来た女子学生が恋愛して南北の分断のせいで結婚できない悲劇に変えました。何とかして映画に朝鮮学校を出したかったのです。劇映画を作るためには、あらかじめシナリオを制作会社の社長や代表に見せなくてはいけません。ところが彼らは朝鮮学校が何なのか知りません。なので話がなかなか進まなくて。そうこうしているうちに代表から、先に小さなドキュメンタリーを作って取材をもう少ししてから劇映画にチャレンジしてはどうかと提案があって、ドキュメンタリーを先に作ることなり、演出と撮影担当ということでフリーランスの私が紹介されました。そうして一緒に大阪に来ることになったのです。
金じゃあ、金監督は日本に来てすぐにウリハッキョを訪ねたんですか?
金監督翌日、東大阪中級学校の卒業式に参加しました。少し遅れて四階講堂の式場に入ると、正面の肖像画が目に飛び込んできたんです。「自分はどこにいるのか、日本だったはずだよな」と思いながら、恐怖に襲われました。来てはいけないところに来てしまったかのような。反共教育を受けた世代ですから。聞いてはいたものの、ショックでした。警戒心で武装しながら「どうしよう、どうしよう」と思っていました。
初のウリハッキョ・東中卒業式
恐怖、警戒、そして涙
ところが式の後、生徒たちと先生の対話を撮影しながら、ある生徒が、「日本の高校に進学することになったけれど、トンムたちとこの学校で過ごした三年間が本当に大切な思い出だ」と同級生や先生に、聞きなれないウリマルで涙を流しながら話すのを聞きながら、知らない間に涙が流れてきて。韓国で聞いたことのない初めて聞くウリマル、外国人の言葉でもない。その生徒が日本の学校に行くというのは、韓国で海外留学や引っ越しで離れ離れになるのとは違う、何か危険なところに行くような感じが自分にも伝わってきて、「なんでこんな場面が繰り広げられているのか?」「なんでこの子が日本の学校に行くからと言って皆が悲しんでいるんだ?」という疑問が、カメラを回しながら頭を巡って、なぜか涙が止まりませんでした。
一時間の間に自分の中で起きた大きな変化に自分でも戸惑いました。今、韓国の人たちとウリハッキョを結ぶ活動をしながら、どんな思想を持っていても、少なくても韓国人なら、同じ民族の人なら、朝鮮学校の生徒たちが教室で過ごす姿を見て、話を交わせばそれだけで、その人は間違いなく大きな変化を経験すると信じています。私がそうだったように、モンダンヨンピルの会員たちも同じ経験をしています。それは間違いないと思います。
金じゃあ、面白いことになりそうだと思いました?
金監督面白いというよりも、非常に大切なことに介入したというか、重要なことをすることになったと思いました。韓国の人たちが、今は知らないことだけど、知らなくてはいけないこと、解放から六〇年たったというのになぜ知らなったのだろう、統一運動する人たちもよく知らないはず、これを知れば多くの人が変わるだろうし、知ることが必要だと思いました。思いがけず大切なことをすることになって、連れてきてくれたチョ・ウンリョン監督が本当にありがたかった。学生運動をしたからと言って、卒業後も社会を意識して生きていく人は多くありません。私も平穏な生活を求めて生きてきて、この出会いが、自分だけではなく社会のためにも大切なことを、カメラを持ってできると思わせてくれました。そんな道を開いてくれた出会いがありがたかったし、中でもチョ・ウンリョン監督には感謝しました。
金その後は大阪にとどまったのですか?
金監督その時の日程は一週間ほどで、学校訪問をしながら撮影をしました。この時にいった学校が東大阪中級学校と広島初中高級学校、和歌山初中級学校、城北初級学校でした。その後も韓国と日本を往復しながら撮影しました。
チョ・ウンリョン監督は、この後も一週間ほど残っていました。どの学校を舞台にするのか決めなくてはいけなくて、同胞たちに相談していたのだと思います。そのうちにウリハッキョの映画を撮ろうと学校を撮影して回っている映画監督がいるという話が、同胞たちの間でどんどん広がったようです。同胞たちは学校の映画を撮るなら寄宿舎のある学校がいいとアドバイスをくれたようで、寄宿舎のある学校を訪ねて回りました。
ただ政府でも市民団体でもない個人が朝鮮学校を訪ねていくのは、訪ねていく側にも受け入れる側にもいろいろ戸惑うところがあります。城北初級学校を訪ねていく時にはキム・グァンミンさんの紹介があったので、ハン・ブテク校長も快く受け入れてくれましたが、いつもそういうわけにはいきません。
東大阪中級学校を訪ねる時も、親しくなった学校の先生に「校内に入って生徒たちの学ぶ姿を見たい」とお願いして、校長先生に話してもらったもののずっとなしのつぶてだったそうです。ところがチョ・ウンリョン監督はそのために日本に来ていたので、日本の友人の家でただ答えを待っていました。一か月が経ったころ、鶴橋の通りで偶然、東大阪中級学校の知り合いの先生に会って、答えを待っていると話すと、驚いたようで、その足で一緒に学校を訪ねて校長に挨拶すると、校長も「まだ待っていたのか」と大変驚いたようです。それを機に学校に通うようになり、子どもたちや先生とも親しくなって、校長先生の信頼も得て、卒業式の日まで三年二班の非公式副担任をしたといっていました。
こうして城北初級学校のハン・ブテク校長の信頼に東大阪中級学校のプ・ヨンウク校長の信頼が重なって、ユン・ミセンという大阪高級学校の教育会で働いていた方(ハン・ブテク校長の奥さん)が、東京の中央教育局で働く朝鮮大学校の同級生を紹介してくれて、その人に映画の企画書を送りました。当時の映画のタイトルは「フロンティア」、開拓者でした。その後、教育局から話し合おうという答えが来て、ユン・ミセンさんとチョ・ウンリョン監督が東京に尋ねて行ったのです。
教育局の方は「計画書を見て感動した。ユン・ミセンさんに、私心のない均衡のとれた方で、いい映画を撮ってくれそうだと聞いた。今後、ウリハッキョに行く時には電話一本くれれば取材できるようにする」と約束してくれたそうです。これは事件ですよね。分断六〇年目に記者でもテレビ局でもない個人が、総連教育局の全幅の信頼のもとに、日本にあるウリハッキョどこにでも思いのまま訪ねていける許可を得たということです。彼女は大変興奮したそうですが、私は後に、活動しながらその意味を知りました。本当にすごいことです。これが映画作りを後押ししてくれました。
「北海道で撮ろうか?」
チョ監督の不慮の死
金監督二〇〇二年六月に韓日共催ワールドカップが開かれましたが、あの時、私たちは日本にいて、東京中高級学校の学園祭に行きました。そこで東京の初中級学校で教員をしていてやめたばかりの北海道初中高級学校出身のリ・セチャンという人に、偶然会ったのです。誰かの紹介だったと思います。映画の話をしていると、彼が、北海道がいいのではないかと、北海道の四季折々の景色や、冬に子どもたちと先生たちが夜通し運動場に水を撒いてスケートリンクを作る様子など話してくれました。私と同じ年なのですが、非常に話のうまい人で、それを聞きながらチョ・ウンリョン監督は「そうなんだ」「わあ」と感嘆の声を上げていました。これは一度行ってみなくてはということで、九月に初めて北海道ハッキョを訪ねました。
ちょうど小泉首相が国交正常化会談のために平壌に発つ日でした。首相が千歳から平壌に発つということで厳重な警戒態勢が敷かれていました。ちょうどその時に私たちが千歳空港に到着し、北海道ハッキョの生徒たちも中央体育祝典を終えて東京から千歳に戻って来ました。空港から生徒たちが乗るハッキョのバスに乗せてもらってハッキョに向かいました。
それから一週間ほど、学校の寄宿舎で寝泊まりしながら余裕をもって学校を見ることができました。ちょうどこの時私たちは恋愛中でした。三度目に訪ねたときは結婚した後でした。そんな過程を通じてチョ・ウンリョン監督が、ここで撮ってみないかと、環境もいいし、都市部の学校とはまた違う雰囲気でいいのではないかと。そういっていた矢先に事故が起きて、チョ・ウンリョン監督が亡くなりました。二〇〇三年四月十一日のことでした。出会ってからやっと一年過ぎた頃でした。北海道を訪ねて七か月が過ぎようとしていました。そんな事情もあって私には映画を撮るなら北海道以外に考えられなかったのです。
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