在日朝鮮人のルーツ③
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記憶、保存、そして継承
日本の歴史歪曲に反対する
「日本の歴史歪曲を許さない!
全国大学生行動」特別企画展示より
どのように集められたのか
安倍晋三首相や橋下徹大阪市長などの政治家は日本軍性奴隷制が強制ではなかったなどの言説を広げています。それに対する反論は既に述べましたが、ここでは実際に被害女性たちがどのようにして集められたかを見ていきます。
- 戦地・占領地の日本軍部隊が『慰安所』の設置を決定
- 軍が業者を選定/内務省や総督府に業者の選定を依頼し、その業者に『慰安婦』を集めさせる
- 汽車または軍用船で戦地へ、そこから軍のトラックで目的地へ移送
前提として日本軍が『慰安所』の設置を決定、業者を選定し、軍の管理する『慰安所』で日本軍人の相手をすることを強いられたという点で軍の関与は否定できません。また軍・官憲が直接、暴行・脅迫により連行したことを示す証言が多数残っていることを先に述べておきます。
上記②で『慰安婦』を集めるその実態は人身売買や騙し、甘言を用いた誘拐などで、これらは刑法第二二六条に違反する犯罪です。これについて資料・証言と共に見ていきます。
・国外移送目的誘拐罪
米国戦時情報局心理作戦班が作成した「日本人捕虜尋問報告」第四九号(一九四四年一〇月一日)に次のような記述があります。
『一九四二年五月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性たちを徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地―シンガポール―における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三〇〇円の前渡し金を受け取った。』
これは国外移送目的誘拐罪にあたり、前借金を渡していることから国外移送目的人身売買罪にも該当します。さらにここでは、約七〇〇人の朝鮮人女性が騙されて応募し、六か月から一年間拘束され、満期終了後も契約は更新されたと記述されています。
・誘拐
小俣行男元『読売新聞』記者は一九六七年『戦争と記者』の中で日本軍性奴隷制に関する回想を行っています。それによれば一九四二年にラングーンに朝鮮から四〇~五〇人の女性が上陸します。軍慰安所を開設したので、新聞記者たちには特別サービスをするから、と言うので大喜びで彼は慰安所に行きます。ところが実際に小俣さんの相手になった女性は二三、二四歳の女性で、「公学校」で先生をしていたと言うのです。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と訊くと、彼女は騙されて連れて来られたと語っているのです。これは誘拐にあたります。
・誘拐と人身売買
第三航空群聯両補給廠の通訳としてシンガポールにいた永瀬隆さんの『私は朝鮮人の慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、彼女たちは私が兵隊ではないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです」彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました』との証言や、畑谷好治元憲兵伍長の『私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる」云々と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきり認識している女は少なかった。……女たちは、慰安所の主人となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、また、親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」と語ってくれた』との回想からは誘拐と人身売買だったことがわかります。
・『慰安所』での強制
一九九三年の「河野談話」では『慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった』と述べています。実際の資料、証言を元に『慰安所』での強制性についてまとめます。
まずその強制性、不当性を明らかにするために日本軍性奴隷制と述べてきた、いわゆる日本軍従軍『慰安婦』制度と日本国内の公娼制度について比較を行います。※ここでは比較のため日本軍従軍『慰安婦』という名称を用います。
①居住の自由
管理・統制された住居に住まなければならず、居住の自由は共にありませんでした。
②外出の自由
公娼制度では外出の自由が認められていませんでしたが、公娼制度は女性の自由を奪った制度ではないのかという外国からの批判を受け、一九三三年から内務省は外出の自由を認めるよう指導をしています。
これに対して日本軍従軍『慰安婦』制度は外出の自由を認めていません。中国常州に駐屯していた独立攻城重砲兵第二大隊の「常州駐屯間内務規定」(一九三八年)には『営業者(※日本軍従軍『慰安婦』のこと)ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス』と書かれており、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の規定(一九四二年)にも『イロイロ出張所長ノ許可ナクシテ慰安婦ノ連出ハ堅ク禁ズ』と書かれています。
③自由廃業
公娼制度に関して性奴隷制度ではないというために内務省は自由廃業の規定を設けましたが、実際にはその規定があること自体知られていない場合が多かった/廃業には警察への届け出が必要だったが業者が妨害した/届け出ることができ、裁判により売春によって借金を返す契約は無くなっても借金自体は無くならなかった/借金を返すために続けざるをえなかったなどの理由からその規定は機能しませんでした。
これに対し日本軍従軍『慰安婦』制度はそもそもの廃業の自由を認められていませんでした。
④行為を拒否する自由
公娼制度は建前上、拒否することが認められていましたが上記のように借金を返すためには拒否することは困難でした。
これに対し日本軍従軍『慰安婦』制度は拒否すれば業者や軍人から制裁を受けたという証言が多数あり、拒否することはほとんど不可能でした。
まとめると以下のようになります。
*下段に掲載
このように公娼制度は外見として性奴隷制ではないという体裁をとっていますが、実際は性奴隷制度でした。この比較から日本軍従軍『慰安婦』制度が日本軍性奴隷制度であったことは明白。
居住の自由 | 外出の自由 | 自由廃業 | 拒否する自由 | |
---|---|---|---|---|
公娼制度 | なし | なし | 1933年から認めるよう指導、法律上の規定はあり。実現は困難 | 建前は自由意志だが実際は困難 |
日本軍「慰安婦」制度 | なし | なし | なし | 拒否はほとんど不可能 |
・裁判判決から見る『慰安所』の実態
戦後提訴された日本軍性奴隷制度裁判のうち被害者の証言が事実であると認定されたものがいくつかあります。その中から宋神道さん在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求裁判東京地裁判決(一九九九年)を紹介します。
以下にその要約を示します。
- 一九三八年、数えの一七歳の時に「戦地で働けば金がもうかる」と騙され、中国の武昌の陸軍慰安所に連行される
- 泣いて抗ったが無駄で、逃亡のたびに殴る蹴る等の制裁を加えられたため否応なく軍人の相手を続けるほかなかった
- 軍人が慰安所に来る時間帯は兵士が朝から夕方、下士官が夕方から午後九時、将校がそれ以降と決められており朝から晩まで軍人の相手をさせられ、日曜日や通過部隊がある時は数十人に達することもあった
- 軍人の中には些細なことで激昂し原告に軍刀を突き付けたり殴る蹴るの暴行を加えた者もあった
- その刀傷痕、呼び名の金子の刺青痕、帳場や軍人による繰り返しの殴打によって右耳が聞こえないなどの後遺症がある
- 軍人は避妊具の使用を義務付けられていたが、使用しない者もいたため性病にかかり妊娠する慰安婦もいた。
- 宋さんも何度も妊娠し生まれた子は養子に出した。
- その後、漢口、岳州、長安などの慰安所に移され、敗戦まで醜業に就くことを余儀なくされた。
宋神道さんは他にも騙され知らぬ間に借金を背負わされていたことや、『慰安所』の酷い状況、軍人から受けた暴行や妊娠中も性奴隷とされたこと、死産を経験したばかりか自分で始末しなければいけなかったこと、敗戦後も日本軍人に騙され日本に渡り捨てられたことなど、日本軍性奴隷制度の悲惨かつ非人道的な現実を証言しています。
・日本軍性奴隷制度被害女性たちのその後
ここで、戦後被害女性たちがどうなったか少し触れておきます。
①置き去りにされた女性たち
朝鮮出身の女性たちは主に遠方の占領地や戦場にて日本軍性奴隷とされた経緯から戦後、
・戦場に遺棄され、死亡したケース
*『壕は女性の遺体で埋まっていた。ほとんど朝鮮人だった』(「写真図説 日本の侵略」大月書店一九九二年刊)
各部隊がそれまで連れて歩いた「慰安婦」をボロ屑を棄てるがごとく棄てた(千田夏光「従軍慰安婦〈正編〉」)
・自力で帰国したケース
*証言:黄錦周さん、姜徳景さん、朴頭理さん、朴永心さん、崔甲順さんなど
・望まないまま現地に残留したケース
*証言:宋神道さん、河床淑さん、朴玉善さん、李玉善さん、金順玉さん、盧寿福さん、裵奉奇さんなどがありました。
②戦後補償からの置去り
一九五二年、元軍人・軍属に対して「国家補償の精神に基づき」個人補償が実行されるも日本軍性奴隷制度被害女性たちには日本政府による個人補償はなされていません。また一九九五年に日本政府は『女性のためのアジア平和国民基金』を創設しましたが、これは民間からの募金による「償い金」であり、国家補償ではありません。
③PTSDの発症、身体的障害
性的な侵害を受けるなど、衝撃的な出来事にあった時に生じる心の傷をトラウマといいます。これはあまりの衝撃に「言葉を失う」経験なので思い出そうとした時や似た経験をした時、「言葉になりにくい」「言えなくなる」といった症状が見られます。トラウマ反応の一つが『PTSD(心的外傷後ストレス障害、Post traumatic stress disorder)』です。このPTSDには、極度の緊張や警戒が続く/フラッシュバックや悪夢などにより突然記憶が蘇る/トラウマ体験を思い起こさせるものを避ける/感情反応がなくなる/自責の念にとらわれるなどの症状があります。日本軍性奴隷制度被害女性たちはこのPTSD発症率が非常に高いのです。
韓国挺身隊問題対策協議会が被害女性一九二人を調査した結果ほとんどが対人恐怖症、精神不安、鬱火、羞恥心、罪悪感、怒りと恨み、自己卑下、諦め、うつ病、孤独感など深刻な精神障害をもっていました。
精神的障害だけではなく、軍人や業者の日常的暴力や虐待により聴覚、視覚を失ったり、刀痕、傷痕、刺青が残ったりしました。繰り返された強かんにより女性の生殖器に治癒できないほどの傷を残したケース、『慰安所』での性病が戦後も完治せず生殖器や子宮異常の後遺症を患ったケース、望まない妊娠・無理な中絶を繰り返し不妊になったケース、性病が次世代に引き継がれ子供の精神や肉体に影響をきたしたケースなど被害女性のその後の人生にまで大きな傷を残しました。
④社会からの疎外
『性奴隷にされた』という事実は戦後も続いた女性に「貞操」「純潔」を強く求める家父長的な社会の中で被害女性の居場所を奪っていきました。また多くの被害女性が家族や自分の属するコミュニティに過去を知られまいとこの事実を隠し沈黙しました。自分を責め故郷に帰れなかった、結婚が難しかった、拒否した、男性と結婚・同棲しても不妊だった、日本軍性奴隷だったという噂により追い出された、貧困に陥った、不安定な生活を送った、自殺を図った女性もいました。
日本政府が加害を認めず補償をしなかったことがこれらを悪化させました。41