発掘資料・リポート:50余名が学んでいた釧路朝鮮午後夜間学校
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「民族教育」1964年9月1日付
今回は、一九六四年九月一日付の「民族教育」紙に掲載された、北海道釧路の「午後夜間学校」に関するリポートの要約を紹介する。原題は、「全ての同胞子弟を共和国の誉れある主人公に―北海道釧路朝鮮午後夜間学校 張英華先生の真心」。
北海道の一角を流れる釧路川の河口域―人口十七万の釧路市にも在日本朝鮮人総連合会支部がある。
同胞戸数はわずか百余戸に過ぎないが、彼らの祖国に抱く愛国の情は他におとらず強い。
彼らは少数ではあるが力を合わせて、敷地百三坪、建坪四八坪の立派な朝鮮午後夜間学校を建設した。
今日、ここに住む同胞たちはどのような希望を抱いて生活しているのだろうか?
それはこの午後夜間学校を通しても充分に知ることができるであろう。
「釧路朝鮮午後夜間学校」―これは実に、ここに住む、百三十戸の同胞たちの愛国心のあらわれであり、大きな誇りである。
「学校を建てたのは私たちであるが、私たちがこのように立派な仕事をなしとげられたのは祖国があり、敬愛する金日成首相の暖かい配慮と教えがあったからです」
同胞たちはこのように言う。
そしてこの午後夜間学校の張英華女先生について誇らかに語るのである。
× ×
張英華先生がこの釧路朝鮮午後夜間学校に赴任して来たのは、二年前の一九六二年五月である。
彼女はこれからの自分の仕事が決して容易なことでないということを知らなかったわけではなかったが、実際に釧路の同胞たちの実情を知るにつれ予想以上に難しいことを感じざるにはいられなかった。というのは、同胞の八〇パーセント以上が日本人を妻としており、このことが同胞たちの民族意識を少なからず弱化させていたのである。
家庭での日常用語は殆どが日本語であり、子どもたちは皆日本学校へ通っていた。だから、子どもたちは「アボジ」(父)、「オモニ」(母)という自分の国の言葉すらわからず日本の子どもとなんら異なるところがなかった。
彼女が初めて祖国を知ったのは、彼女の一家が帰国することになったときのことである。それまで彼女の一家は生活の糧を求めて日本中を廻った。そのような中で、彼女は小学校から高校まで日本の学校へ通うことを余儀なくされた。
帰国の道が開かれたとき、彼女の一家は苦しい異国での生活と決別すべく帰国の準備にとりかかった。彼女も帰国の準備として一か月の学習に参加した。ここで彼女は初めて祖国を知り、祖国のために何をなすべきかについて考え始めた。
彼女は今なお、日本には自分と同じように日本の学校で学び、祖国について皆目知らないでいる青少年が十万余名もいることを知った。自分が初めて祖国について知ったあの感激をこの十万名の生徒たちに与えよう! 彼女はこう誓って自らすすんで教育事業に携わることになった。
× ×
こうして彼女は誉れある人民教員としての第一歩をここ釧路朝鮮午後夜間学校で踏み始めたのである。
彼女の仕事は学父兄に対し民族教育の必要性を目覚めさせることから始められた。彼女は毎日授業が始まる前とか、授業が終わった後、同胞父兄たちを訪ねた。
しかし、一部の同胞の中には、「日本の学校に通っても勉強さえしっかりすればよいではないか」、「何だって午後夜間学校へ通わさなければならないのか」と反駁する人もいた。
張先生は、そのような同胞たちを根気よく説明して納得させていった。
あるときは生徒たちと話し合うために、日本の学校へも訪ねて、授業が終わるのを待ったりもした。
× ×
彼女は「朝鮮新報」、「朝鮮画報」、その他の出版物をもって毎日、戸別訪問を行った。同胞たちの家庭の雑事を手伝ったり、「朝鮮新報」も読んで聞かせたりして彼らを根気よく目覚めさせていった。
こうしたある日、金義一という生徒が突然午後夜間学校を休んだ。
張先生はすぐ彼を訪ねて行った。義一の母は床に臥せっていた。父はその日その日暮らしをするため多忙を極めていた。義一はこのような家庭の中で食事の支度やその他雑事を引き受けてやらなくてはならないので、学校へ来られなかったのである。
義一は日本の学校でも、「落第生」として通っていた。彼の成績はみるに堪えれないほどであった。特に算数の成績は良くなかった。
彼は生まれつきの落第生ではなかった。家事を一身に引き受ける彼には勉強のことを考えるだけの時間的な、また精神的な余裕がなかったのである。
彼女は、毎日朝早く義一の家に行き、夜には夜間学校が終わると、自分家に連れてきて、彼の学科成績を高めるために努力した。彼の最も苦手とする算数に主力を注いで、分かりやすく教えた。義一の算数の実力は日に日に目に見えて伸びて行った。
二か月間、たゆむことなく義一を指導した。そうしたある日、彼女が義一の家に行くと、病床の母が涙を流しながら、「先生、あの子は本当に頭が悪いとばかり思っていましたけど、これを見てやってください」と、言いながら算数の試験の答案紙を差し出した。
それには赤鉛筆で「一〇〇」と書き込まれてるではないか! 張先生の目にも涙が光った。
その後、義一は午後夜間学校で一層勉強に励み、他の生徒たちの模範生としてはつらつと育っている。
張先生のこのような努力は同胞たちの間に広まり、大きな感動を呼び起こした。「朝鮮学校がこんなによい学校であると知らなかった」、「やっぱり朝鮮の先生がよい」などといいながら子どもたちを競って朝鮮午後夜間学校へ通わせるようになった。
こうしてみるみるうちに児童・生徒数は五十余名に増加した。
× ×
張英華先生の熱意はこれに尽きない。
根室に住む鄭〇〇という生徒は品行が荒々しく、どこの学校でも受け入れなくなっていた。
昨年の六月のことである。
根室市役所から張先生に「鄭〇〇君を『感化院』に入れなければならないが、先生の意見はどうですか?」との相談を持ち込まれた。彼女は彼を感化院へ入れることを一か月だけ延期してくれるように交渉して、自分の家に連れてきた。
その頃、彼女は釧路から根室まで、幾人かの児童・生徒のために出張授業をやっていた。そんな中でも彼女は鄭君に対して個別指導を行ったのである。こうして昨年冬から鄭君は自ら日曜学校へ来るようになったばかりではなく、品行も正しくなり、感化院を免れることができたのである。
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このような中で同胞たちは、「子どもたちに対する教育を先生だけに任せておくのは、親としての道理ではない」と言いながら、貧しい生活の中から出し合った百数十万円の予算で、立派な学校を建てたのである。
この建設事業で、義一の父である金学元氏は総連の幹部がとめるのもかえりみず、その苦しい生活の中から千円、二千円ずつ八回にわたって一万余円を寄付した。また、鄭君の母親は釧路市から遠く離れた根室に住みながらも建設工事に毎日のように参加したばかりではなく、落成式の日に生徒たちが朝鮮の服を着なければならないといって、夜を徹して二十着のチマとチョゴリをつくった。
同胞たちは、お金のある人はお金で、力のある人は力で、自分たちの能力のある限り、この午後夜間学校のために尽くしている。
今、張英華先生は同胞たちのこのような誠意に感動しながら、釧路午後夜間学校で教鞭をとるだけではなく、日曜日には、汽車で四時間もかかる根室まで行き、そこで日本の学校に通っている同胞子弟のための「日曜学校」の講師を続けている。そればかりではなく、電気もなく、交通も不便な別保まで行って、同胞子弟を教えるなど、一人でも多くの同胞子弟に祖国を知らせ、立派な祖国の子に育てるため、青春の情熱を注いでいる。だからこそ、同胞たちは張英華先生を尊敬するとともに、彼女を育て、指導した総連を誇りとするのである。41