学美をこよなく愛された仲野誠先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます
スポンサードリンク
もくじ
- 1 「心の空白」によせて
- 1.1 「学美」を世界へ発信しよう! と共に志した仲間であり同志 朴一南
- 1.2 学生に「真」と「愛」を持って優しく寄り添う優しい先生 金明和
- 1.3 先生のような「他者」がそばに寄り添っていてくれる事は貴重 金誠民
- 1.4 学美や民族教育の現場で見つけた小さな鉱脈を私たちも一緒に確認 李鏞勲
- 1.5 まだまだ共になしえなければならない事がたくさん… ソン・ミョンミ
- 1.6 秋に変わる空を見ると先生を、先生の言葉を思い返すでしょう 朴美奥
- 1.7 安心して真面目に「悪戯」できる環境が凄いことだし羨ましいことだと 姜泰成
- 1.8 「不思議な方」、その場にいることが当たり前のことに… 金潤実
- 1.9 「いい、面白い!」と言ってくれる事を探し続けるしか… 崔誠圭
- 1.10 朝鮮学校の先生たちと共に学美を世界に発信していきます世在日朝鮮学生美術展山陰展実行委員会 世話人 三谷 昇
「心の空白」によせて
仲野 誠・社会学者
「なんだこれは!」
これは、二〇一一年の夏、朝鮮大学校で行われた在日朝鮮学生美術展の中央審査会ではじめてこの作品に出会ったときの私の気もちである。私は心がざわめき、落ち着いてこの作品と向きあえなかった。そして、あまりこの作品をみないようにしていた。
その後、学生美術展の神戸展、大阪展、東京展、神奈川展、そして鳥取展で、何度もこの作品に出会いなおした。否が応でも視界に飛び込んでくるその圧倒的な存在感に私の心と身体はすなおに従うしかなく、気がついたら展覧会場でこの作品の前に立っていることが多かった。
そのような時間をかけた、いくつもの場所での出会いなおしのプロセスの中で、私は次のことに気づかされた―「ああ、これは私だ」
「そうか、これは私自身の姿だったのか」―このような気づきが確信に変わっていくにつれ、私は落ちついてこの作品に向きあえるようになってきたような気がする。
「人には心の空白がある」というメッセージを携えたこの作品は、多くの人にとっての「鏡」のように思える。人はこの作品に向きあうとき、そこに自分自身の姿をみることになるのではないだろうか。
自分の「心の空白」に気づいたとき、自分の弱さをそこに認めたとき、私たちは心の空白を抱えた多くの仲間たちと出会うことができるのかもしれない。そしてそれは私たちの強さへと転換されよう。
「心の空白」は、文字どおり何もない空白のようにも見える。しかしそれは一方で、人とつながっていくためのトンネルのようにも見えるのだ。この空白/トンネルの先には何があるのだろうか。
*仲野誠先生が生徒の個展に寄せた一文=提供・東京中高 崔誠圭
「学美」を世界へ発信しよう! と共に志した仲間であり同志 朴一南
仲野先生と初めてお会いしたのは二〇〇八年三月、ウリハッキョ(朝鮮学校)が無い鳥取県で県内の日本人有志たちによって結成された在日朝鮮学生美術展(学美)鳥取展実行員会主催による「第37回在日朝鮮学生美術展覧会 鳥取展」の会場だった。
体格の良い人だな…と思ったが、後日、柔道のオリンピック強化合宿に参加したことがあると聞きビックリした。話してみると、国立大学の先生とは思えない謙虚な姿勢と温厚な人柄に好感を持った。その初印象は学美と深くかかわった数年後の今も変わらない。
初めて学美の作品と接した先生は「技術的なことは私にはわからないが、まず作品の色彩の鮮やかさや表現方法の多様性が非常に印象的でした。また、子どもたちが感じている自らのリアリティの切り取り方やフレーミングも衝撃的でした。もちろん「〈民族学校の生徒〉と〈日本の学校の生徒〉」というような、単純な二項対立で比較することはナンセンスだと思いますが、それでもあえて申し上げると、民族学校の子どもたちには自分の生活世界を表現するより豊かな力が備わっている(というよりもたぶん「鍛えられている」)という印象を受けました」「今回拝見した朝鮮学校の子どもたちの絵は、日本の学生の表現方法と少しだけ、でも確実に違っているように思えます。自分にとってのリアリティを生き生きと捉え、それを表現しようとする意思―ここに私はある種の希望をみるような思いがします。」との感想を送ってきた。
翌年の二〇〇九年に朝鮮大学校で行われる「学美中央審査会」に初めて参加された。その年は二日間、二〇一〇年には四日間参加した。
中央審査を見た先生は「子どもたちに徹底的に信を置く先生方の態度です。子どもたちの作品を目の前にして、何人もの先生方が『これは何を表現しているのだろうか』と頭をひねり、戸惑い、大きく揺れながら考えるさま、そして議論するさまは圧巻でした」
「わたしは、自分たちの持っている価値観に誇りを持ちつつも、それだけを過剰に信じず、常に他者に寄り添って自分たちを鍛え続け、そして仲間たちとともに新しい価値を創造し続けようとする、非常に真摯な専門家集団の態度を見ました。これも、小さな子どもたちに宿る大きな魂を先生方は感じられているからか、と思わざるを得ませんでした」
「<専門家>である先生が、<素人>である子どもの作品一つひとつにこれほどまでに真摯に向き合い、一方的に評価するどころか、作者の意図を汲み取るために、これでもかと言わんばかりに全員が議論を積み重ねる場にいることができたのはわたしの幸せでした」と感想を言いながら、だんだん学美にのめり込むように二〇一一年からは審査から作品梱包作業まで、一週間の全日程を我々と寝食を共にしながらこなすようになった。
TOSS(教育技術法則化運動)の影響が今でも色濃く残る美術教育現場で、マニュアル化した方法論や大人の価値観よって指導、評価した結果、ステレオタイプ(類型的、紋切り型表現)の絵が並ぶ日本の美術教育とは違い、表現を子供に返し表現する事を思う存分楽しめるよう、描写力や上手さの評価では無く、色んな既成の枠からはみ出す生徒たちの作品に込められた生の感性と心の表現を、審査に参加した先生たち全員で繰り返し議論しながら一生懸命探り評価する学美の在り方、それを支える学美のコミュニティとその在り方に仲野先生は深く共鳴されたようだ。
中央審査だけではなく、島根県まで伝播し輪が広がった学美山陰地域展覧会をはじめ、北海道から九州まで学美巡回先を回った先生は「子供に『信』を置く学美」「他人の価値を生きないヘットライト型知性の人間を生み出す学美」、「美術を教えない教育」「みんなが揺れる学美審査」、「魂の表出、学美」、「社会関係資本としての学美」、「安心して枠からはみ出し自己表現する学美」、「感染(伝播)する学美」など毎年、我々学美に素晴らしい言葉を残して下さった。
それは、今年四五回目を迎える学美が積み重ねて来た成果と今日の学美の姿を言語化し、明日への手がかりを示してくれた貴重な言葉でもあった。
昨年、鳥取大学仲野ゼミの学生と共に全国朝高美術部合同合宿に参加した際には「ちゃぶ台返しの学美」というテーマで講演し、「既存の日本の教育では成しえない素晴らしい財産を君たちは築いている」と朝高美術部生たちを励ましてくれた。
また、在日コミュニティを体感すべく岡山の運動会や各地で開催されるウリハッキョの行事にも参加され、学美中央審査会や全国朝高美術部合同合宿、山陰地域(鳥取、島根)学美展や神戸展に同行した学生たちの大変感動的な感想文は本誌「朝鮮学校のある風景」31号から連載されている。
鳥取大学の学生と共に全国に残された先生の痕跡は、それぞれの地で後世の財産として光を放ち続けるに違いない。
「学美は『私がなれなかったもうひとりのわたし』であり、もしかしたら『これから私がなれるかもしれないもうひとりのわたし』という希望でもあります。この時代に学美と出会うということは、自分自身を問い直し、自分自身に出会いなおす機会を獲得することのように思います」
また。社会学者として「越境する魂と真摯に向き合う学生美術というアート集団―それはわたしたちがこの時代を生きていくための新しい知恵や希望を創出しているような気がしてならない」「この時代の課題を乗り越えていく可能性を秘めた学美」「この時代を生きる同時代人たちの利益につながっていく学美」と評価し、学美が日本のみならず外へ発信する大いなる勇気を与えてくれた。
仲野先生は誰よりも学美を愛し、そして社会学者の立場から民族教育と在日コミュニティの大切さを痛感されていた方でした。
九年前に学美で出会い、共に仕事をし、共に笑い、共に感動し、共に飲んで、共に語り、共に夢見、学美を世界へ発信しよう! と共に志した、いつの間にかその場に居て当然のような仲間であり同志でもあった大切な人を喪ってしまいました。
二〇一六年一〇月八日午前一時十一分、鳥取大学准教授 仲野 誠 先生が癌の為、永眠されました。
享年五一歳、余りにも若く、志し中半の余りにも突然の悲報に言葉を失いました。
仲野先生! これかも、学美の傍らにいつもいて、叱咤激励あらん事を願ってやみません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
在日朝鮮学生美術展 中央審査委員会
委員長 朴一南
学生に「真」と「愛」を持って優しく寄り添う優しい先生 金明和
尊敬する先生が永眠された。本当に優しい先生だった。「優しい」という言葉にはよく、弱さだったり優柔不断さという危うさが含まれたりする。しかし仲野先生は、本当の意味で「優しい先生」だった。
私が先生に最初に出会ったのは七年前の二〇〇九年、学美の中央審査会での事だった。
ご挨拶で先生は、「学美の審査を観て思った事は、学美には愛があるという事です。先生と児童の間に『信』があり『愛』があると感じました」とおっしゃっていた。私はその愛という言葉に反応して「そうなんですよ! 学美には愛があるんです! 尊重なんですよ!」と浪花節な挨拶返しをしたのが初めてのやりとりだった。「愛という言葉を使うのは実は躊躇しました。陳腐に聞こえてしまうかもと心配でした。しかし、愛という言葉そのままを受け入れてくださって、分かってくださって嬉しかった。学美には本当に愛があり尊重があります!」こうおっしゃった後、互いに笑い合ったのを今でも覚えている。
先生はそれから学美にずっと関わって来られた。社会学は、社会生活のなかでの人間同士の関係のあり方や、社会のしくみを探る学問である。学美を社会学的な見地から分析し評価、発信してくださったのは先生が最初だった。
先生は学美をヘッドライト型だとおっしゃっていた。ヘッドライト型知性とは、高信頼型の社会的知性で、未知の他者との関係を積極的に切り開く探索型の知性である。あらかじめ用意された一つの「答え」に向かうのではなく、制作する児童たち一人一人がそれぞれ思い感じたリアルを切り開き、教員はそれに寄り添い続けること。先生は学美の魅力についてそうおっしゃっていた。ただ、寄り添うという言葉の使用についてはずっと悩んでおられた。寄り添うという言葉の持つ立ち位置の傲慢さへの問いかけである。
先生が亡くなられた日は、関西レインボーパレードの開催日だった。レインボーパレードとは性の多様性を祝う、セクシャルマイノリティーの方々のお祭りある。早朝のメールで訃報を知った私は、あまりにも動揺し涙が止まらなかった。信じられないという気持ちと、やっぱり逝ってしまわれたんだという悲しみで打ちひしがれていた。ずっと前から参加を予定していた関パレだったがあまりにも悲しく、パレードを歩く気持ちになれなかった。
泣きながら先生からのメールやアルバムの写真を見返していると、二年前の関パレで先生と一緒に写した写真が出てきた。そうだった。二年前のその日、先生は鳥取大学のセクシャルマイノリティー未認可サークルである「虹色らくだ」の学生さんと一緒に、遥々大阪まで来ておられた。先生は、虹色らくだのサークル立ち上げやその後の活動にも深く関わって来られた。自らのセクシャリティについて悩み苦しんでいる十代のLGBTの学生たちに、もっと広い世界を見せるために、関パレに参加されていたのだ。
先生が関わって来られたのはLGBTだけではない。私が知っているだけでも釜ヶ崎やべてるの家など。マイノリティーのしんどさを抱えもがきながらもたくましく生きようとする人々へのエンパシーと敬意、尊重の念である。そしてその事を、学生に伝えるため日々奔走されていた。
学美にもいつも学生さんと共にいらしていた。先生は本当の意味で「先生」だったのだ。大学の先生(教授)には研究者型の方もいらっしゃるけれど、仲野先生は根っからの「先生」だった。学生に『真』と『愛』を持って優しく寄り添う先生。しかし、優しいという言葉の持つ危うさ、愛という言葉の持つ陳腐さ、寄り添うとい言葉の持つ傲慢さを、先生はいつも自覚されていた。そしていつも自戒されていた。私は誰かの足を踏んでないか?
しんどい想いを抱えている学生にもっと出来る事はないか? 先生が学美の事を『愛』とおっしゃられた事、もしかしたら自らの学生への態度と、重ねておられたのかもしれないと今は思う。
先生は、本当の意味で優しくて、愛のある先生であった。
二年前の写真に背中を押され、関パレに今年も参加してきた。
仲野先生の遺志を継ぎたいと思ったからである。レインボーの傘をもって会場である扇町公園に出かけると、思いがけない人に出会った。『鳥大 虹色らくだ』のプラカードを掲げた学生さんだった。私は声をかけ、初めて会ったその学生さんと抱き合い仲野先生の事を話し泣いた。今年も、関パレに参加して良かった。
仲野先生は余りにも早く逝ってしまわれたが、先生の残されたものは本当に沢山ある。先生は沢山の人々を残された。関パレであった虹色らくだの学生さん、告別式に参加されていた学生さん、学美であった卒業生の方々。真の教育者であった仲野先生のされたことが、これからも残り続け、影響を与え続け、きっと社会を良い方向に進めてくれるであろうと思う。
先生にお墨付きをいただいた学美も、日々の図工授業も、先生に追いつけるよう頑張らなくては。
仲野先生、本当に、本当にありがとうございました。
先生のような「他者」がそばに寄り添っていてくれる事は貴重 金誠民
前略
仲野先生
人との出会いがこれほどまでに意味深く、共にすごした時間がどれだけ芳醇な一時であったか、今更ながら思い知らされます。
以前にも言いましたが、先生のような「他者」がそばに寄り添っていてくれる事は貴重な出来事です。ある人曰く、ひとは他者を介してのみ自分を知ることが出来るとのこと。
おかげさまで学美はちっぽけな自己完結に陥らず、開かれています。
先生のようにひょうひょうと接点を結び、自ら「色眼鏡」(先入観)をつけて見ていることを自覚されていながらも、より深く、じっくりと我々を洞察される他者はいません。
また、先生は時折、洞察で捉えたことを率直に我々に投げかけます。
例えば、学美の中に「今の時代を生き抜く力や可能性がある」と先生はおっしゃいました。私はその言葉を、今の時代を生き抜く「正しさ」であると受けとめています。抽象的な言葉のなげかけであっても、こちらとしては大切な励ましになります。その投げかけは、はじめは外から見た私たちの行為に対する意味付であり、それが「内なる気付き」になり、その重なりは学美が自己を承認するための心持ちとなり、内省的ながらもポジティブな表象をつくりだしています。
他にも、学美の審査や展示会場をフィールドワークの場として、そこを学生さんの開放的な学びの場にしていますね。多様な人との交わりのおかげで、我々の活動空間はより立体的な空間になり、そこではいろんな意識が芽吹いています。そう思うと、先生も今の学美を造形している作家の一人であり「表現者」ですね。
話はかわりますが…
先生は「揺れ」の中で学美は育つとよく言われます。最近、わたしたちは大切なものを失い揺れています。その揺れは音もなく、色もない、感じたくないつらいものでした。
その揺れは頭にとどかない重いゆれです。ただただ、つらい揺れです。その揺れはふとした瞬間、にじんできます。悲しくもなく、寂しくもない、ただただ、つらい揺れです。今も、学美を揺らしています。それでも、その「揺れ」が学美の地平を耕し広げていく揺れになればこそ、先生の望むところかなと思っています。それでこそ、先生の仮説を立証できるとおもっています。
遠いところから大変だとはおもいますが、これからも応援、宜しくお願いします。
草々
学美のファンの仲野先生のファンより
学美や民族教育の現場で見つけた小さな鉱脈を私たちも一緒に確認 李鏞勲
仲野さんが学生美術展の審査に初めて参加されたとき飲み会の席で、ある社会学者の言説を引用しながら、知性には地図型とヘッドライト型の二種類があって、日本人には地図型がおおいがあなた方はまさにヘッドライト型である、という話をされた。社会学に疎い私はその話を聞いてなにかが啓けたような衝動を受けたことを憶えている。地図も持たずに手探りで迷いながらも進むフロンティアのイメージ。美術教育も、そして民族教育も、目前の問題の解決を自分の眼と手で探り当ててきたのではないか。後で調べると高名な社会心理学者の言説だということで、「関係性を感知する能力」のことを「地図作成型知性」、「人間性を感知する能力」のことを「ヘッドライト型知性」と呼び、他者との関係性に焦点を当てている。社会学者であった仲野さんの話を勝手に解釈していたのかもしれないが、その後のお付き合いの中で感じたことは仲野さんこそ私のイメージしたヘッドライト型の人であった。
そして仲野さんが学美や民族教育の現場で見つけた小さな鉱脈を私たちも一緒に確認し、多くのことに気付かされた。大げさに言えば仲野さんのおかげで、学美と在日の美術教育は何を目指しているのかということを、言葉によって自覚させられたのかもしれない。
教育にも美術にもマニュアル(地図)などない。目の前の学生、作品に対峙し悩み手探りで何かを見つけ出し前に進むのだ。そして仲野さんが、他者ではなく不可欠な同志と自然に感じられた時、日本の今を憂える日本人の姿を強く感じた。
ご冥福をお祈りします。 (朝鮮大学校 美術科主任)
まだまだ共になしえなければならない事がたくさん… ソン・ミョンミ
「仲野先生、なぜ在日の事にここまでご熱心なんですか? まるでご自分のことのようですね」とあうたびに問う私に彼はいつも真顔できっぱりと答える。
「そうですよ。あなた方の事は私自身の事なんです」
暖かい眼差と人懐っこさ漂う柔和な笑みが印象的な彼はいつも私たちと共にいた。
彼との出会いはかれこれ一〇年前、在日朝鮮学生美術展に感銘をうけ鳥取での独自開催を実現しようと奮闘された日本の小学校教諭三谷先生を通しての事だった。
以来彼は毎年のように八月の朝大での学美中央審査に参加し、子供たちの絵を前に熱い論議を繰り広げる全国の美術教員たちの声に耳をすまし、一挙一動を見逃すまいと寝食を共にした。そればかりか夏の全国の朝高美術部合宿にも参加し、異国の逆境をものともせずまっすぐに育ちゆく子供たちの様々な思いに真正面からむきあった。
「今、日本の教育に必要な事がここに在る」と常に言い切る彼は単に感情としてではなくしっかりとその根拠を解き明かし、手探りで前に進もうとする私たちですら見逃していることに気づかせてくれた。それは私たちを迷いから解き放ち、自らを肯定し、これまでしてきた事、これから目指そうとする事に誇りと自負をもたらせてくれた。
そしてそれをあらゆる機会を通して多方面に発信してくれた。というより、自己の問題として声高に訴えたのだ。多くの人を巻き込みながら。神戸、大阪、東京、神奈川学生美術展と共に全国を巡り、出会い、語り、共に歩んだ。彼にもっと多くを学び、諭してもらいたかった。もっと多くを語ってほしかった。彼とはまだまだ共になしえなければならない事がたくさんある。今、彼に逝かれるわけにはいかないのだ。彼のあまりにも早すぎる死を私はいまだに受け入れる事ができない。 (南武朝鮮初級学校)
秋に変わる空を見ると先生を、先生の言葉を思い返すでしょう 朴美奥
「とてもきれいだったんですね。」
仲野先生に生前、たくさんの言葉をいただきましたが、一番胸の中に残っている言葉です。
京都でお会いした時に、先生に亡くなった祖母の話をした事があります。参列者の別れ花によって真っ白な花で埋め尽くされていく祖母の最後の姿がとても美しくて、その美しさゆえに涙が止まらなかったと先生に話すと、先生は肯定も否定もせず静かに共鳴してくれました。
先生の言葉はいつも私の心の深い部分に響いていました。
私は悲しさと美しさは似ていると思います。先生がこの世を去った日の空の雲が美しすぎて私はまたその事を学びました。
花の匂いを嗅ぐたびに祖母を思い出すように、秋に変わる空を見ると先生を、先生の言葉を思い返すのだと思います。
安心して真面目に「悪戯」できる環境が凄いことだし羨ましいことだと 姜泰成
「悪戯」
彼は即答した。
「全力で悪戯をしていますね」
二〇一〇年の文化祭にて行った美術部の催し物の展示作品を見た際の率直な感想であった。当時の展示作品は絵画や彫刻といったファインアートではなく、空間を利用したインスタレーションが主だった。
我が校、神奈川朝鮮中高級学校の校舎二階の廊下を展示会場にして、コンクリートのひんやりした感覚や暗さ、窓の黒く塗られた格子から差し込む光とのコントラストや床に写りこむ規則的で無機質な影の形など、空間の特長を活かしながら作品を展示した。
壁や地面に蟻が書き込まれ列をなしている作品、光が差し込む空間に一〇〇〇粒の水玉を浮かせた作品、トイレの白いタイルの壁に物が燃えて煤になるまでの映像を映した作品、大人一人しゃがみこんだら入りそうな大きな玉を繭のように吊り上げた作品、廊下に突如現れたマンホールなどの作品たちを見ながら彼は楽しそうにしていた。作品のキャプション、コンセプトを一つ一つじっくり読み、何度もデジカメのシャッター音を鳴らした。
私はそっと側によって簡単な挨拶を交わして展示の趣旨などを説明した。
「インスタレーションで空間をジャックする」ことが課題であること、インスタレーションとは何かということ、制作過程の生徒たちの様子などを話した。
すると彼はすぐさま「全力で悪戯をしていますね」と即答した。「校舎二階に上がって間もなく目に付いた作品の一部を汚れと間違えて拭き取ろうかと思いました」と、笑いながら続けた。それを辿ると作品であることに気づいたのだという。
そして、作品が展示された二階は文化祭全体の雰囲気の中でここだけが異質な空気を感じることから、美術部の展示を「決まりに沿うことの出来ない一部の生徒たちの真面目な悪だくみ」と言い表しながら枠や決まりからはみだすからこそ「悪戯」であり、本気ではみだすことで表現や創造が成り立っている。何よりも安心して真面目に「悪戯」できる環境がすごいことだし羨ましいことだと言い残し展示場を後にした。
(神奈川朝鮮中高級学校 美術部顧問)
「不思議な方」、その場にいることが当たり前のことに… 金潤実
仲野先生と初めてお会いしたのは、確か自分がまだ大学生の頃です。何かのイベントの時に美術教員などが集まった飲み会に参加して、その時に仲野先生もいらしていました。最初は「面白い先生がいるよ」とだけ聞いていて、その時も「不思議な方だなあ」となんとなく思っていたのを覚えています。
その後自分も教員になり、一年目の学美中央審査会に参加した時には、仲野先生はすでにとても溶け込んでいて、全く違和感がないことに「やっぱり不思議な方だな」と思っていました。他にも合宿や美術部展や学美地方展など何かあれば、時には学生も連れて全国を飛び回っていて、飲み会の席などで話を聞くたびに、熱心に想いを持って関わってくださっていることを感じて、むしろとても刺激をもらいました。毎年毎年、いろんな場所で仲野先生に会うこと、展示を観に来てくださること、その場にいることが当たり前のことになっていました。大阪は鳥取から近い方なので、いろんな機会に出向いてくださって本当にお世話になりました。
私がまだ教員一年目か二年目の時に、インタビューをしてくれる機会があったんですが、その時は正直、教員としてまだ何もわからないままで、私なんかでいいのだろうかと思っていましたが、同時に他の先生たちと変わらずちゃんと一人の学美の「教員」として尊重してくれていることを嬉しく思いました。上手く言えませんが、それが仲野先生だなと思います。言葉足らずで拙い私の言葉を、しっかりと聞こうとしてくれていたのを思い出します。ですが、その時のインタビューでちゃんと応えられていなかったような気がして、少し後悔しています。違う形でいつか取り戻せたらと思っていましたが、それもできなくなってしまったことがとても心痛いです。
仲野先生という存在がいることで、私たちはなおさら私たちの「教育」と「美術」に、その現場に、安心して向かうことができていたんだと思います。
最後に、仲野先生に渡す約束をしていた生徒の作品を届けることができて良かった。何度もタイミングが合わず、実はずっとずっと気にかかっていました。遅くなってしまってすいません。本当にありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りします。
「いい、面白い!」と言ってくれる事を探し続けるしか… 崔誠圭
仲野誠に「揺らされた」一人として
仲野先生との関わりで一番に印象深いのは一緒に面白い事が出来た「YAKINIKU アーティストアクション in 枝川」の事だろうか。多分、仲野先生に聞いてもそうであろう。
仲野先生が東京朝鮮中高級学校のある十条を訪れ、夕飯でも食べましょうという事になったのが始まりだった。私は仲野先生が東京・十条に夕飯を食べに来るという事も含め、どうやって全国のいたるところ(インドネシア、海外まで)に瞬時に出没できるのかを本人に突っ込んでみるのだ。うちの国の金将軍の専売特許である「縮地法」という魔術を先生も使えるのではという話。鳥取の家が飛行場に近いから、と言われていたが、この魔術はそう簡単に使えるものではない。
そんな話から十条名物「からし豆腐」を肴に枝川で行うアーティストアクションの話を始めた。
東京・枝川の東京朝鮮第二初級学校の校舎建て替え時の旧校舎でのアートイベント。その最終日に七輪焼肉をやってみんなで盛り上がりましょう、という企画。七輪の煙りは旧校舎の精霊たちを追いだし、新校舎に引っ越しさせる事になる。今まで子どもたちと一緒に遊んでいた精霊のザシキワラシは新校舎に移った後でもウリハッキョの子どもたちとずっと遊んでくれるでしょう、と言う話に笑いながら「いい! 面白い!」と相槌を打ってくれた事を今でも思い出す。
仲野先生は妖怪、精霊の類は人の生活の傲慢さを戒める存在だ、子供のような存在がそれと常に戯れる事の出来るような「場」が教育現場に必要だと語ってくれた。
イベントには朝鮮学校名物の七輪焼肉というものに釣られて、海千山千のアーティストたちを始め、様々な職種や立場の人たちが賛同してくれた。仲野先生は即答で参加しましょうと言ってくれた。他のイベント賛同者は焼肉の煙りに釣られて集まってきた。仲野先生は面白い人の集まりの匂いに釣られて参加するのだ。本当に仲野先生らしい。
声かけしてからイベントまでの一か月の間、何度も「縮地法」を駆使しては枝川を訪れ、賛同者と一緒に枝川の街をまわり、枝川の歴史やコミュニティの雰囲気を肌で感じ、また、どこかの地へ消えて行く。賛同者の中には殆んど顔も出せず、当日に何とか…という人たちもいたが、準備期間一カ月の東京のイベント準備にどうやって「鳥取で働き暮らす人」がこうも積極的に参加できたのだろうか。私でさえ顔を出せない賛同者への案内日でも、出没しては一緒に町中を散策し、討論に参加する姿がネットにアップされた。これはトンデモナイ社会学者さんだと思った。
その姿勢は仲野先生の「他者」に対する考え方を現していたのだろう。それは学生美術展の審査に参加する姿勢にも表れていた。顔を出すだけでなく、一緒に汗を流し、文字通り寝食を共にした仲間として仕事をしてくれた。仲野先生が社会学者としてGAKUBIの中に入り込み「研究者と研究対象」という垣根を優に超えてしまったのは美術教員たちの開けっぴろげなコミュニティ性だけではなく、仲野先生の人柄と他者に対する考え方からであろう。実際に重い荷物を持ち、カッターを握り、働いているときは仲間。合間に審査会場の隅でひそかに何かを書きとめている姿を発見し、「社会学研究者」の肩書を思い出す。そして自分も仲野先生の観察対象だという立場を思いだす。決して関係性を一つの性格で括らない。相手と常に同じ高さの関係性を作り上げるのだ。
仲野先生が学生美術展「GAKUBI」を研究すると称して、その対象である私たちに与えてくれたものは計り知れない。
GAKUBIという団体に学生作品を含めたコミュニティとしてのアート表現、アート集団でありうる可能性を客観的に示唆し、そこに知性を与えてくれた。
GAKUBIの審査に参加している事を、自分は「利用」しているんだと語り、鳥取大学の学生たちを参加させ、作品のプレゼンまでする事になった流れは、仲野先生とGAKUBIとの信頼関係が無ければなせることではなかったろう。鳥大の学生や私を利用してくださいと話し、決して一方向ではない繋がりを作り上げるスタンスは全てにゆるりと一貫していたように思う。
YAKINIKUのメーリングリストに投稿された仲野先生の文にこのような書き込みがある。
「…この枝川のイベントに関わった方々は、単に枝川(の地域と人々)が抱える固有の問題に関心を抱いたのではなく、むしろそこには自分自身の困難や課題も照射されているからこれに関わっているのではないか、と思います。「個人苦」は「世界苦」につながっている、と言ってもいいでしょう(北海道浦河町の統合失調症当事者の共同体「ペテルの家」の言葉です)。…YAKINIKUはあえて言えば「個人苦」が「世界苦」へ広がる経験だったといえるような気がします。…それぞれの表現や困難が(文字どおり)「交響」した場が、あのYAKINIKUだったように思うのです。そんな意味でYAKINIKU自体が、この時代・この大状況におけるひとつの大切な作品だったように思います。」(YAKINIKU-MLから抜粋)
私は仲野先生の「他者を自分がそうであったかもしれない可能性としてとらえ、多様な人とつながり続ける行為」はアーティスト側からみて「アート」そのものであり、仲野先生はもうアーティストなんですよ、と話した事がある。いや、鳥取大学屋台部の活動も含めて、アートです、と仲野先生に語った事があったと思う。アーティスト側、とかそんなものすら無いんだ、と言う事もお酒の席で語ったような気もする。…今となっては確認しようがない。
そんな、あいまいな記憶の中で仲野先生との事柄は、まるで夢の中の出来事のように取り留めもなく私の手元から逃げてしまう。もう、居なくなってしまった途端にこんな状況だ。本当に無情である。
審査会場で仲野先生がLINEを使っていないという話を聞いて、社会学者としてコミュニケーションツールに関心を持たないというのはどうなんですか、と生意気なことを言ったところ、そこから怒涛のようにLINEを使いだし、私も屋台部のグループに入らされた。旺盛にコメントし、学生とつながるLINE文面から本人の喜びがあふれていた。仲野先生は、おしゃべりは人とつながるための装置だと言ってましたよね。学生とつながり、人とつながる事を喜びに感じていた仲野先生には鬼に金棒なツールだったでしょう。あなたがしゃべってくれた色々な事は私にとっても何かの啓示になるような尊い事だったように思うのです。でも、脳細胞は全ての事を正確には記録してくれない。LINEの文面や書いてくれた文章、映像を通じて仲野先生がこれまで何をして、これから何をしたかったかを考えるのみです。
ただ、仲野先生の「子どもたち」である鳥取大学の教え子たちが何をやっていくかを見る事が、仲野先生の考え方を知るという事になるのでしょうか。
そして、仲野先生に脳を揺らされた一人として私が何かやることも、仲野先生の自分がなれなかった他者としての存在の証明になるのでしょうか。
そんな事を仲野先生と話したい。けれども、いない。
ザシキワラシ的存在をふわりと信じている限り、いつでも仲野先生としゃべる事が出来るはずです。が、それは自分に話している事でもあり、とたんにさみしくなるでしょう。
私が仲野先生を揺らす事はもうありませんが、仲野先生はこれから私をずっと揺らし続けます。受けて立つしかないです。
仲野誠が「いい、面白い!」と言ってくれる事を探し続けるしかないのです。
スポンサードリンク
朝鮮学校の先生たちと共に学美を世界に発信していきます
世在日朝鮮学生美術展山陰展実行委員会 世話人 三谷 昇
まず、故仲野誠先生の葬儀に際し、全国各地からお集まりいただいた方々、弔電・生花を送っていただいた団体・個人の方々に深く感謝し、実行委員会世話人を代表してお礼申し上げます。ありがとうございました。
先生には、朝鮮学校がない山陰地区で初めての「在日朝鮮学生美術展(以後、学美展)」を開催するにあたり世話人の代表として、仲間としてご一緒していただきました。倉吉市を皮切りに鳥取県内の倉吉市・米子市・鳥取市、島根県内の松江市・出雲市・浜田市と計九回の開催に、学生たちと共にその展示から撤収まで参加され、とりわけ朝鮮学校美術教員との交流の場である会場展示後の「交流会」で、学美展の「存在意義」を強く語っておられたことが、山陰展の継続に大いなる根拠として息づいていたと思います。
その証となるものの一つが、昨年八月三〇日に地元紙である「日本海新聞」(カルチャーコーナー)に投稿された学美展の紹介記事です。
第44回在日朝鮮学生美術展
『おおらかな子どもたちの表現の世界へ』第44回在日朝鮮学生美術展が倉吉市で開催されます。これは、全国の朝鮮学校で学ぶ幼稚園児から高校生までの美術作品の全国巡回展です。山陰地方で朝鮮学校の子どもたちの美術作品と出会えるとても貴重な機会です。
作品は極めてユニークな力作ぞろいです。子ども達は少しも臆することなく自由にのびのびと表現を楽しみ、遠慮なく枠をはみ出していく作品の細部にまで子ども達の魂が宿っています。
素朴に作品を楽しむのもよし、作品を通してこの社会に共に暮らす人々の多様性や豊かさに想いを馳せるのもよし。どうぞ子どもたちの豊かな作品群に会いに来てください。
仲野 誠(山陰展実行委員/鳥取大学教員)
短い文ですが、子どもたちの作品の「存在意義」が、社会学者である先生の視点がよく表れていると思います。
二〇〇九年夏の第38回学美展審査会に参加されて以来、毎年夏に一週間以上にわたる全審査期間に立ち会われ、子ども達の絵に接してこられたことでは、全国巡回展では見られない全国各地の子ども達の絵を通して、その息づかいと魂、存在意義を感じられていたのだと思います。「絵を描くことも観ることも、私は専門家ではないので」とよく言っておられましたが、絵の「表現」から感じ取られる子どもたちの想いの大きさ・広がり・あり様については、私たち以上に多様に感じ取られていました。その証拠は、高級学校美術部の部展や共同合宿に、鳥大の学生たちと共に参加され、大学生たちの学美ファンが大勢出来たことにも表れています。
私は、鳥取県中部の公立小学校で三五年余り教員をし、図工教育をしてきました。しかし、子ども達に本当の「表現」としての作品作りの大切さ・多様さを教えてきたのかといえば、そうではなかったように思います。二〇〇八年に川崎市で学美展に出会い、子どもたちの作品を目の前にした時に気づかしてもらえたように思います。そして、自分の学校の子ども達にも「自分の思いを表現するための絵」を知ってほしいと思い、退職までの数年間ではありましたが、そんな作品と出会えるようにと取り組んできました。「同じテーマで同じ技法で描かせるといった描かせ方がいいのだ」という教員の一方的な指導の下で子ども達に接してきたのと対照的に、「表現したいものを見つけ出させることが教員の務めであり、『こうしなさい』と言わない指導」の姿に気づかされた学美展の作品ばかりでした。このことは、専門でないといわれる仲野先生の表現への視点と少し見る位置は違っていても共通する点であったと思っています。その意味でも、来年の二月には、勤務先であられた鳥取大学のある鳥取市で、第45回鳥取展を開催することになっており、全力で素晴らしい美術展になるようにしたいと実行委員会一同決意を新たにしています。また、先生とのお付き合いのあった方々との「先生の想いを語りあう会(仮称)」を様々な方と開きたいとも思っています。その折には、ぜひお集まりいただければと思います。
最後に、私たちから先生に送った弔電を紹介させていただき、先生のご冥福をお祈りすると共に、さらに全国巡回展と山陰展を支えていただければと願うところです。
「仲野先生のご逝去に接し、実行委員会一同よりお悔やみを申し上げます。学美をこよなく愛し、この山陰の地に朝鮮学校に学ぶ子ども達の息づかいを共に伝えることができ、大変嬉しく思っていました。全国各地の朝鮮学校に足を運び、精力的に子どもたちの想いを伝える試みは、私たちが必ず受け継いでいきます。あの笑顔で語られる姿をもう見ることができませんが、先生のたくさんの言葉を胸に刻み、朝鮮学校の先生たちと共に学美を世界に発信していきます。安らかにお休みください。ありがとうございました。」40
スポンサードリンク
私は 仲野先生を 知らないし 学美展も みてない
でも ここに ある文を読んで 仲野先生をはじめて知った
私の見えない知らないところで豊かな人間関係が くりひろげられていて
羨ましい。 自分が みすぼらしい人生をおくってるようなきがしてきた