「学美」教員たちのどん欲な 学びに感服
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八月、ICT講習の十日後、再び朝鮮大学校を訪れた。在日本朝鮮学生美術展覧会(学美)の審査が行われると言う。
ここ数年、学美の展覧会は文化の秋を告げる風物詩になっている。会場を巡っていると一つ一つの作品から、子どもたちの学びや驚き、笑いや悔しさ、あこがれや疑問が伝わってきて、「へえ、そうなんだ」「そんなことがあったんだ」「楽しかったんだね」「惜しかったね」と心の中で話しかけている自分を発見する。個性満点の表現に不意を突かれて、「なんだ、これは!」と動けなくなることも度々、手の込んだ作品の前では、若さ故のそのひたむきさに心打たれる。
学美の作品の良さは、似たような作品が無いことだ。「絵はこういう風に描くものだ」という手本に近づけようとするのではなく、子どもたちの描きたいと思う気持ちを引き出して、それをどうして作品にするのか、子どもたち自身が工夫するよう、先生たちがうまくサポートしているのだろう。だから作品一つ一つに独自の表情があり、それぞれがしっかりと主張しているのだ。
お邪魔したのは、審査の二日目。会場の食堂二階ホールに行くと、高級部のクラブ作品審査が始まるところだった。今年も秀作、力作揃いだ。注目の、京都の生徒の針金アートの新作もあった。今年も文句なしで「特金」に選ばれた。「作品を売ってくれないかしら」という先生がいたが、そのときは私も手を上げたい。「慰安婦」問題を扱った神奈川の生徒の作品では、審査委員たちの激しいバトルが繰り広げられた。私は、思春期の男子生徒が、歴史的なジェンダーの問題をここまで深く掘り下げて描いたことに、感動した。今年初め横浜の大桟橋で行われた展示会で見た彼の作品も印象深かった。あのとき展示された無造作に集められた白い厚紙で作った無数の四角いキュービックの前に、この時は新しく大きな目が置かれていた。作品はこうして成長するのかと思った。
午後、初級部児童たちの審査に参加させてもらった。ホール一面に置かれた作品の中から一点を選ぶ。それを持ち寄って六~七人のグループで選んだ理由を説明し、三点に絞る。ここで選ばれると、全員の前で作品のプレゼンテーションをする。そして再び振るいにかけられ、「優秀賞」が決まる。
審査員たちは子どもたちの声を聞き逃すまいと何度も作品の間を行き来する。一枚を手にとって来て、気になるもう一枚と見比べる。遠くにもう一枚、気になる作品を見つけて改めて手にする。そんなことを繰り返して、ようやく選んだ一枚。プレゼンを聞いていると、子どもの心の動きを大切に見守る温かい視線に驚いたり、胸が熱くなったり…。
一学年が終わると、作品が入れ替えられる。その間、持ち寄ったカメラやパソコン、プリンタで審査を終えた作品のデータ化や写真入り表彰状の作成が行われる。老いも若きも審査員全員が手際よく自分の担当する作業をこなしていく。
臨月間近の先生も来ていた。他の先生に「しんどいでしょうね」というと、「私もあれくらいの時に来たわよ」という。ここで他の学校の作品に刺激を受け、プレゼンで学ばないと、産後復帰した後の授業に困るからと。どの先生も「学美の審査は何より大切な学びの場だ」という。「学びへのどん欲さ」、これは学美の先生たちの共通点の一つだ。全員が現役の創作者でもあるからなのだろう。だから私や山陰から訪ねてきた日本の人々を快く受け入れ、素人の意見からも刺激を受けようとするのだろう。
心理学者で慶応大教授の今井むつみは三月に出した著書「学びとは何か―探求人になるために」(岩波新書)で、「子供が将来選択した分野の達人になる手助けをするための本当にシンプルな鉄則」の第一条として、様々な現象に対して「なぜ?」と問い、自分から答えを求めていく姿勢をもつこと、第二条に、親も探求人であること、と述べている。学美はまさにそれを実践しているように思う。(金淑子・編集部)39
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