発掘される4・24教育闘争関連愛唱歌への思い
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- 「4・24교육투쟁의 노래」(4・ 24教育闘争の歌)
- 「우리 학교 지키자」(私たちの学校を守ろう)
- 「선생님 울지 마세요」(先生泣かないで)
- 「작별의 노래」(別れの歌)
呉亨鎮・在日朝鮮人歴史研究所 顧問
世界各地に点在する同胞が七〇〇万人ともそれ以上とも言われている。そのなかでも私は、在日同胞 特に解放後七〇余年間日本政府の尽きない民族差別と迫害と闘いながら苦楽を共にしてきた総連傘下の同胞ほど愛族愛国心が強く、民族文化を大事に育んできた人たちは世界に例が無いと思っている。
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在日同胞たちの生活の場、民族権利を守り祖国統一を促す闘いの場には必ず人々を力強く鼓舞激励する素晴らしい音楽があった。しかし長い歳月が過ぎ、世代が大きく変わる中、忘れ去られたうた歌が少なくない。
最近、同胞音楽家や有識者が、文芸同をはじめ金剛山歌劇団や地方歌舞団、「朝鮮新報」や「朝鮮学校のある風景」の編集部などの協力を得てそれらの歌を発掘、整理し同胞社会と後世に伝えて行くための新たな努力を重ねられているのは大変良いことである、と思っている。
もくじ
■最近発掘された「4・24교육투쟁의 노래」
在日朝鮮人教育擁護闘争史上最大規模な事件として記録されている一九四八年の阪神教育闘争一周年に際し、その不撓不屈の闘争精神と伝統をつたえる一環として許南麒作、金敬在作曲による「4・24의 노래 」が誕生、同胞たちの中で闘争歌として愛唱された事は良く知れ渡っている。
ところが、最近その歌とは別に「4・24의 노래」のパート2とも言えるもう一つの「4・24교육투쟁의 노래」が作詞作曲され唄われていたことが分かった。
現時点では、作詞者も、作曲者も不明だ。歌詞の内容は4・24教育闘争過程で尊い命を失った金太一少年や朴柱範先生の名前と共に、四月二四日が在日同胞たちにとってどんな歴史的意義を持つ大事な日であるかを伝える歌詞となっているのが特徴である。
歌詞の中で「오각별 하늘에 비쳐」と唄っている個所を見るとこの歌も共和国創建直後に作詩、作曲された闘争歌のようである。
「4・24교육투쟁의 노래」
피로써 지킨 4・24 원한의 날 4・24
태일동무의 붉은 피 주범선생님의 피
오각별 하늘에 비쳐 우리학교 지킨 날
야수들의 억압 혜쳐 우리 교육 지킨 날
「4・24교육투쟁의 노래 」の歌詞と曲は数年前、朝鮮新報社の金潤順記者が、東京朝鮮中高級学校時代の恩師である全潤玉先生(78歳)から聞きとったものである。「사방에 비쳐」を「하늘에 비쳐」、「억압싸워」を「억압 해쳐」と、うたわれたという記録も残っている。
いままで伝えられてきた「4・24의 노래」と共に、新しく発掘された「4・24교육투쟁의 노래」を来年の4・24教育闘争記念日に金太一、朴柱範先生の墓前で合唱出来れば良いと思っている。
■小学校低学年の教科書に載っいる「우리학교 지키자」
「우리학교 지키자」という歌が一九五〇年四月十五日に学友書房から発行された小学校一、二、三学年用の『즐거운 노래책』 상に掲載されている。作詞作曲は「4・24의 노래 」と同じ許南麒、金敬在氏である。この歌も民族学校を守る為の闘いの歌である。
一、푸른 언덕 푸른 나무 푸른 숲 푸른 하늘 밑에서
우리 공부 우리 나라 글 우리 배우는것을
막을자가 누구냐 막을자가 누구냐 나서 보아라二、붉은 두 뺨 붉은 주먹 붉은 피 붉게 타는 이 가슴에
새조선을 굳게 세우자 우리 가는 앞길을
막을자가 누구냐 막을자가 누구냐 나서 보아라三、나팔소리 노래소리 울린다 우리 깃발 날린다
동무들아 서로 팔 잡고 우리학교 지키자
조선 하늘 저 멀리 조선 하늘 저 멀리 보이지 않나
ウリハッキョを守る闘い、民族教育を守るその闘いは祖国解放後七〇年が過ぎた今日も続いている。
■当時、子供たちの目線、感性で作られた「선생님 울지 마세요」
「선생님 울지 마세요」
선생님이 우시네 왜 우시나요
우리학교 못하도록 일본경찰이
한 말이 분해서 우신답니다
선생님 선생님 울지 마세요
우리들은 일본학교 가지 않겠어요
우리들은 일본학교 가지 않겠어요
私は、「선생님 울지 마세요」の歌詞に接した時、4・24民族教育弾圧で自身が十歳ごろに体験したショッキングな状況が思い出され涙を堪えることが出来なかった。
日本共産党機関紙「アカハタ」(一九四九年一〇月二一日付)の一面に次のようなタイトルの記事が掲載されている。
「學校守る歌」 東京 役人もたじたじ
(東京支局発)十九日閉鎖通達をうけた東京都品川朝鮮人小学校では早朝から幼児を抱えた母や父兄など約百五十名がつめかけ、児童たちは「私たちの学校を守ろう、先生心配しないで下さい、私たちは日本の学校へは行きたくない」という意味の歌を唄っているところへ東京都総務局と品川区役所の役人が通達を持って来た。学童たちの必死の顔をみて「気の毒だが命令で仕方がない」とばかりをくりかえすのを「それなら文書にそのように書いてゆけ」「泥棒してこいといわれて仕方ないという人があるものか」「悪い命令なら反対してください」としがみつき、ついに区の役員は個人として反対署名文に署名して行った。(以下省略)
記事に反映されている生徒たちが習っていた歌のタイトルがどのような歌詞だったのか追跡調査を重ねた結果、「선생님 울지 마세요」であることが明らかになった。
この歌は一九四八年の4・24阪神教育闘争後、大人や先生の感性や目線で作詩、作曲された「4・24의 노래」等とは違い、文字通り子どもの目線、感性で作詩、作曲されうたわれていた歌である。
当時、米軍指揮の下、日本政府によって突然、朝鮮学校が武力弾圧される中、民族教育を守るため身を挺して警官たちに立ち向かった教職員や父母たちが次々と逮捕、投獄されたばかりか、児童・生徒たちに対し日本学校への転校が強要され、実際少なからぬ生徒たちが転校していった。民族教育と子どもたちの将来を憂い憤りを抑え切れず悔し涙を流している先生たちの姿に接し、大きなショックを受けた幼い児童・生徒たちの気持ちもまた大変複雑だったと言える。苦しい胸を叩きながら声を出して悔し泣きをしている先生たちを何とか慰め、残っている生徒たち自身も日本学校へ転校しない決意をハッキリ表明することによって、先生達を安心させようとした歌である。
この歌が、東京や関西地方のウリハッキョで唄われていたことが追跡調査によって再確認された。
4・24阪神教育事件から六八年の歳月が過ぎた。しかし今日朝鮮学校を取り巻く日本国内の環境はいつにも増して厳しくなっている。日本政府は、過去の過ちを反省するどころか民族教育に対する弾圧の陰湿な方法の一環である兵糧作戦として、朝鮮高校を高校無償化制度から除外、各行政をして朝鮮学校への補助金、助成金を廃止させており、学生たちの日本学校への転校促進策を執拗に押し進めている。学校数、生徒数も以前に比べ減少している。
日本政府に対する朝鮮学校の先生たち、在日同胞達、良心的な日本国民の憤りは天を衝く勢いである。六八年前に作詞作曲された「선생님 울지 마세요」の歌の中に今日の先生たちと生徒たちの怒りと決意が凝縮されているように思える。
これからも大人たちと共に生徒たちの闘いも続くであろう、勝利するまで。
■卒業式でうたわれた「작별의 노래」
「작별의 노래」もまた、4・24教育事件直後の厳しい環境下で生まれた感動的な歌のひとつである。
兵庫県の片田舎である多可(現在の西脇)朝鮮小学校の趙光先校長、金椿先生により、民族差別と迫害が横行している厳しい日本社会に出て行く卒業生が、学校で教えた通りどんな困難に遭遇しても強い志を持ってお互いに助け励まし合い団結して打ち勝って行く上で糧に、心の支えになればと願って作詩作曲された心のこもったうたいやすい歌である。
歌は三番まである。一番は在校生たちが卒業生達に贈る歌であり、二番は卒業生達が在校生たちに残す歌であり、三番は卒業生はじめ全校生たち教職員たちが共に誓い合う歌となっている。
「작별의 노래」
一、잘가거라 동무여 작별을 슬퍼말고
푸른하늘 별빛 밑에 우리는 한데 뭉친다
잊지 말자 우리의 길 우리의 약속
한마음 한 뜻으로 이겨나가자二、잘 있거라 동무여 작별을 슬퍼말고
푸른 하늘 별빛밑에 우리는 영원히 손을 잡는다
잊지 말자 우리의 길 우리의 희망
한마음 한뜻으로 싸워나가자三、출발의 새 노래가 높이 울리면
백두산 천지같이 우리는 영원히 변치 않는다
잊을소냐 우리의 길 우리의 맹세
강철같이 굳어라 우리의 단결
六〇余年が過ぎた今でも、私は「작별의 노래」を聴くたびに自身の志と人生の原点がその歌に籠っているような気がして胸が熱くなるだけでなく、同胞社会と後世達の幸せのための闘いをもっと強める必要性を実感している。
「작별의 노래」は、既に茨城朝鮮初中高級学校と千葉朝鮮初中級学校の卒業式等でうたわれているが、他の学校にも拡散すればと願っている。(2016・9・1)39
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