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卒論は朝聯期の朝鮮人学校の国語(クゴ)教科書
金朝聯期の国語教科書の論文はどのような内容なんでしょうか?
こうのすけ学部の卒論で、こんな教科書がいつ出て、こんな目次で、体裁でというようなものでした。富山大学にいらした梶井陟(かじいのぼる)さんに資料をお借りして、やりました。後に総聯の第一副議長になる李珍珪(リジンギュ)さんなんかが大活躍した時代だったんですよね。彼には一度お手紙を書きましたが、返事はありませんでした。東京の魚塘(オダン)さんや朴尚得(パクサンドゥク)さんに会いに行ったりしていろいろお話聞いたりして。朝鮮総督府の教科書をそのまま使ったりとか、紙のない時代だったから質の悪い紙の教科書で、それでも何とか子どもたちに伝えようと一生懸命やっていた、そういう朝聯文化部の活動から民戦(在日朝鮮統一民主戦線)くらいまで書いたんです。それを『在日朝鮮人史研究』第17号に掲載していただきました。しかし、論文といえるような代物ではなくて、こんなことがあった、あんなことがあったという紹介程度で終わりました。後に、アメリカ・メリーランド大学のプランゲ文庫でGHQ押収資料なんかが整理されて、解放後の在日朝鮮人運動資料がたくさん出ているんですけど、これらは卒論のだいぶ後だったので利用できませんでした。二〇〇二年に李殷直(リウンジク)さんの『物語「在日」民族教育の夜明け』(高文研)が出ましたが、あれが卒論の時にあればどれほど助かったことか。教科書を印刷する紙をどうして準備したかとか、GHQとどういうやり取りがあったとか。そんなこともわからないまま、書いてました。まあそれでもいろいろ当時の苦労話は聞きました。ショックだったのは、本はいっぱいあったけれど、同胞の古紙回収業者に出してしまったとか、人民大学習堂のほうに送ったとかで、現物が見られませんでした。そういうことで資料があまり残っていなくて。もう少しちゃんとやるつもりだったんですが、民戦くらいで終わってしまったんです。
そのあとも朝鮮学校の教材研究をしてみたいと思って、知り合いから譲っていただいたものがほんの少しあります。こういうものもこれから集めたいと思っています。時代によって朝鮮学校の教科書も内容が変わっているから、どう変わったのかということはちゃんと書き残しておかなくてはと思っています。でもまあ、六〇年代、七〇年代のモノはなかなかむずかしいですね。教科を歴史と国語、音楽くらいに限ってでも、残したいという思いは今もあります。
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