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日本史の教師が開いた朝鮮語自主講座に参加
金大学教員になって何年ですか?
こうのすけ大阪外国語大学大学院の修士課程を一九八六年に修了してからずっと非常勤講師ですから、二十八年くらい。途中二年間、中国吉林省縁辺朝鮮族自治州の延辺大学で朝鮮族の学生たちに日本語と日本事情と称して在日朝鮮人問題を教えていました。
金専攻は?
こうのすけ朝鮮語学科の卒業で、卒論は朝連(在日本朝鮮人連盟)時代の朝鮮人学校の国語教科書についてやりました。修士論文は、「公立朝鮮人学校としての大阪市立西今里中学校」というテーマで沿革を追いました。本当は、西今里中学校に行った在日朝鮮人の子たちがどうやって朝鮮語を書いたり、読んだり、聞いたり、話したりするかを解明したかったんですけど。
金4・24阪神教育闘争以降の?
こうのすけそうです。朝鮮人学校を閉鎖して一九四九年に東成朝鮮学園を接収して、大阪市が十一年間西今里中学という公立中学の分校という形で運営したわけです。六一年に朝鮮総聯の朝鮮学校に移管されて、現在の中大阪朝鮮初級学校に至ります。土地は大阪市との話し合いの中で、無償対応できたけれども、大阪維新を標榜する橋下徹市長の時期にそれを掘り返して、地代払うか出ていくかということで係争中で、現在和解案が出されています。
金朝鮮語は八〇年代当時ポピュラーではなかったと思うんですが、どうして専攻しようと思ったんですか?
こうのすけ中学時代は人並みに英語が好きな少年でした。ところが、教師が非常に高圧的で、英語ができなかったら受験に困るとか、生徒を脅すんです。そういう英語の教師の態度が傲慢に思えて、高校に上がった後も相変わらずそんな感じがしてだんだん英語嫌いになっていきました。それで欧米がいやになって、ある時ふと、自分の中で脱「欧」入「亜」を試みようと思って、中国語の勉強をテレビとラジオで始めました。NHK教育テレビの市民大学講座で京都大学の吉川幸次郎さんが杜詩を読むとうのをやっていて、中国に魅かれていきました。それで、高校二年生くらいまでは中国文学か中国哲学に進みたいなと思っていたんです。
ところが、そんな僕に転機が訪れます。高校三年生の六月くらいに、日本史で赴任してきた大今歩(おおいまあゆみ)さんという教師が授業の終わりに、「朝鮮語の学習会を始めるので、勉強したい人がいたら来てください」といったんです。彼は京都大学の現代史で水平社について卒論を書いたそうなんですが、七〇年代に、韓国民衆文化を研究していた梁民基(ヤンミンギ)さんが京大の学生たちに呼ばれてやっていた京大朝鮮語自主講座で朝鮮語をやったんですね。それで毎週金曜日の放課後、一年生の女の子三人と三年生の僕と、社会科の教師が二、三人で手ほどきを受けることになったのが朝鮮語を勉強したきっかけだったんです。
金よく集まりましたね。
こうのすけあまのじゃくな僕は、受験と程遠いからやってみたんです。テキストは大阪外大の市民講座の手作りのものと朝鮮青年社の『朝鮮語基礎』で、この時に覚えたフレーズは二つだけ。「ウリドゥルン チョソンサラミダ(われわれは朝鮮人だ)」と「ウリドゥルン ロドンヂャイダ(われわれは労働者だ)」で、文字は覚えられませんでした。秋になって志望校を決めなくてはいけないということで、狙っていた中国文学や中国哲学は京都大学・大阪大学・神戸大学と、関西に有名校が結構あって、偏差値が高いので到底無理なので、受験資料をあれこれ探していると、大阪外大の朝鮮語は共通一次で六、七割程度なのでいけそうかな、これでいいかと。別に朝鮮の何かを知っていたわけでもなく、なんかやりたかったわけもなく、文学部には行くと思っていたけど、まあ外語大ならありかなと考えるようになりました。
母にそのことを言うとすごく怒られました。「中国やるといっていたのに、よりによって朝鮮か」と、悲しんでいました。母には幼いころ近くにいた貧しい朝鮮人のイメージがこびりついていていやだったみたいです。ところが一年目は見事落第でした。高三の秋に父を亡くして、母にはあまり負担をかけたくなかったので、中之島図書館の自習室で図書館浪人して。周りは英語ばっかりやっているから、また嫌気がさして。それで英語はやめようと決めて、ドイツ語で受けることにして、朝から晩までドイツ語の勉強ばかりしていました。テレビ・ラジオのドイツ語講座にもお世話になって。それで二回目の共通一次試験はドイツ語で受けて、大阪外大朝鮮語学科に入学できたんです。定員が十五人中、八人が女子でした。同期の学生で朝鮮語をやりたくて来たという学生はほとんどいませんでした。
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