仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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インタビューを終えて
金淑子・「記録する会」
朝鮮大学校創立六〇周年記念大祭典でお会いして、インタビューをお願いした。その時も同級生たちが一緒だった。五十数年変わらない友情がうらやましかった。
六月初めに板橋区のファミリーレストランでインタビューし、三週間後に原稿確認と写真の受け渡しのためもう一度会った。
ゆっくりとした優しい口調の中に、長年多くの人の前で講演し、生活指導してきたキャリアが刻まれていた。ご両親の話や朝鮮大学校草創期の話に、質問することも忘れて聞き入った。
インタビューを通じて考えたことが二つある。一つは女性が学ぶことについてである。
在日朝鮮人社会では、帰りたくても帰れない故郷への思い、失われていく民族性への危惧から、多くの人々が故国の人々以上に封建的な因習に執着し、女性が学ぶことを良しとしない風潮が根強かった。そんな中「裸足で歩くことになっても、勉強はさせる」という福連さんのオモニの口癖は、何としても封建主義の呪縛から娘たちを解き放つという固い決心を感じさせる。当時、短大を卒業した娘を、さらに朝鮮大学の四年制に送るオモニの気持ちを理解する同胞は多くなかっただろう。風当たりも強かったはずだ。実は福連さんは代を継いで女性運動をしてきたのではないかと感じた。
もう一つは民族教育における朝鮮大学の役割の大きさだ。
創立40周年の記念祭典・4期~7期生(1996・4)富山に夏季宣伝隊に行った後大阪に戻った福連さんに、始めてオモニが自分の生い立ちを話し、袴をチマチョゴリに縫い直して朝鮮大学に戻る福連さんに持たせたという話は、まるで小説のようだ。在日朝鮮人である自分を受け入れ、自分を生んだ歴史を理解することは、両親の人生を理解することでもある。今も昔も、民族教育はそのためにある。
また建国学院を卒業した福連さんは、朝鮮語の習得に苦労したようだ。同時期、京都の朝鮮高級学校に通った柳貞子さんは「先生はみな京大出身でした。皆、日本語でした」と本誌21号のインタビューで語っている。一九五〇年代中ごろ、在日朝鮮人二世のインテリの中で、すでに朝鮮語は風前の灯だった。この時に朝鮮大学が、朝鮮語ができる教員を育成しなかったならば、今のような朝鮮語による民族教育はできなかった。朝鮮語を知らずに、朝鮮半島の歴史や文化を理解し、民族のオリジナリティーを継承することは不可能に近い。その日の生活にも事欠く貧しさと日本政府の厳しい弾圧の下で、朝鮮大学を創設し、六〇年間発展させてきた在日朝鮮人運動の先見性と正当性を改めて実感する。
二度目に会った時に福連さんに改めて女性が学ぶことの大切さについて聞いてみた。「女性も学ぶべきです。男女が平等でこそ社会が発展します。男性ができて女性ができないことはないのです」と話していた。38
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