仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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痛ましい民族の歴史
金淑子ご両親は、日本に渡ってきて一度も故郷に戻れなかったんですか?
金福連アボジは、解放直後に渡日したハラボジが故郷に戻るときに送っていきましたが、その後は一度も行けませんでした。オモニは故郷に帰りたくないと言っていました。あまりにも苦労したので、二度と行きたくなかったようです。亡くなった後、妹が両親の遺骨を故郷にある代々の墓に納めました。だから死ぬまで一度はそこにお参りしたいと思っています。故郷訪問があれば行きたいと言っているのですが、今は中断されているので。一度は故郷というところを見てみたいです。知っている人は誰もいないと聞いていますが。
金淑子ウリナラに帰った姉弟とは?
金福連オンニには一度だけ会いました。あまり一緒に暮らしたことがないので、懐かしいということはありませんでした。オッパとオンニは幼いころ、親にわがままを言ったり甘えたりすることを知らないで育って、日本で生まれた私や妹弟と仲良く過ごすこともありませんでした。
地方に出張し報告する金さん(1965)オモニもアボジも帰国するつもりで妹弟たちを先に送って、帰ろうとした矢先に帰国事業が中断して、そのまま残ることになりました。なので日本に残ったのは兄と妹一人だけで、あとは皆帰国しました。ウリナラに帰った妹や弟はハムフンや平壌で住んでいましたが、行くたびに会っていました。アボジは、教育活動家代表団で一度ウリナラに行きましたが、オモニは一度も行けないまま、六〇代で亡くなりました。朝鮮民族の歴史は本当に痛ましい。
それでも妹弟が帰国して両親の負担が少し減ったと思います。日本にいたらみんな大学まで送れなかったかもしれない。弟は大阪朝鮮高級学校からリ・スンギ博士に憧れて帰国して毛紡織工場の支配人をしていました。妹は、踊りのチェ・スンヒに憧れて、幼いころから芸術の方に進みたいということでタップや日本舞踊、バレエみんなやりました。やりたいことはなんでもバックアップするというオモニの哲学で。平壌文化芸術大学に進んで、舞台に出ていた時期もありました。今年二月に亡くなりましたが。
今では帰国した妹弟もなくなって、残っているのは姪や甥だけです。今年二月に平壌に住んでいた妹がなくなって、ウリナラに行く足取りも重くなってしまいました。今は一度でも南の両親の墓にお参りしたいと思うだけです。両親のお墓に行って、ウリナラに帰った妹弟をちゃんと面倒見ましたよと報告しないとね。両親は知らないから。
一九六二年から八六年まで女性同盟中央にいる間は地方出張が多くて。子どももいないし、夫も活動家だったので、夫婦それぞれ出張ばかりでした。その後東京女性同盟に来て、今は顧問を務めています。もう一五年になります。
偉大な指導者たちを持った祖国があって、総連組織があって、愛国的な同胞たちがいたから、こういうふうに育って、朝鮮人として誇りをもって生きてこられたんだと思います。そうでなければ私の人生は大きく変わっていたと思います。
心残りは、民族の念願である祖国統一がなされていないことです。今の自分を育ててくれた祖国、総連組織、女性同胞のために尽くしてきたのですが、残り少ない余生を祖国統一と同胞のために少しでも役立てたいと思っています。
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