仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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「活動通して親孝行できたかな」
金淑子医学部に行かないで、朝鮮大学校に行ってよかったですか?
金福連朝鮮大学に行って両親に孝行できたと思います。
女性同盟中央で活動するようになって、各地で講演することも多くなりました。近畿学園で生活指導したときにオモニが来ていました。東淀川の副委員長をしていました。私は来ていることを知らないで、遅刻してきたオモニたちに、「時間は守らなくてはいけませんよ」と注意して、「講師の先生は厳しいのね」と言われたりしていました。そうして祖国訪問時(1996・8)て生活指導が終わるとオモニが横を通りながら「今日は家に帰ってこられるの?」と聞くので、「今日は終わったら帰ります。おいしいものをたくさん作ってくださいね」と答えると、さっき遅刻してきた女性がオモニに「誰なの?」と聞いていました。「うちの娘」と答えると、その女性が「娘なんて言わなかったじゃない。さっき怒られたのに」と驚いていました。そういうオモニでした。オモニは自分の娘から講習を受けるなどとは想像もしていなかったはずです。大変な思いをして学校に送ってよかったなと思ってくれたんじゃないかなと、女性同盟の活動家として講義する娘の姿を誇らしく思ってくれたかなと、その時思いました。
私の人生において活動家として、最も印象深い思い出は、一九七三年に第一回同胞女性代表団のメンバーとしてウリナラを訪問したことです。思いがけず金日成主席にも会って、記念写真も撮って、腕時計もいただいて、金正淑オモニの映画も一緒に見ました。映画が終わると「映画は面白かったですか?」と聞かれて、「はい、いい映画をありがとうございました」と答えると、「ああいうふうに活動しなさい」と言って帰っていかれました。今でもその言葉が昨日のことのように鮮明に耳に残っています。また祖国訪問で印象深いのは、元山の女性たちの前で日本での同胞女性たちの活動に対する報告をした時のことです。どんなふうにしたのか覚えてないのですが、そこに夫の帰国したオモニや妹たちが皆来ていたようです。夫の両親とは一緒に暮らしたこともないし、何もしていないのですが、その時ばかりは誇らしく思ってくれたかなと思っています。
女性同盟の活動家として、実家のオモニや夫のオモニに少しでも恩返しができたのではないかなと思っています。一九八九年の世界青年学生祭典にも参加しました。二〇一三年七月に訪問団として行ったときには、たまたま夫が平和統一協会の代表として行っていたので、幸運にも多くの方たちと一緒に金正恩委員長と記念写真を撮る機会に恵まれました。
「人生を自力で歩む」若い女性たち
金淑子朝鮮大学での生活や女性同盟の活動で、女性として息苦しさは感じませんでしたか?
金福連「女性だから」という考えは、女性自身の中に強くあるように思います。私自身も「女性だから」と一歩下がるところがあります。活動で、男性が何かをしようとすると、女性はどうすればより効果的にできるかと考えて、男性に劣らずやり遂げます。活動において一歩下がってということはありませんでした。全般的に平等になったとは言えないかもしれないけれど、女性としてやるべき任務は男性に引けを取らずにやり遂げていると思います。家庭でも母親が弱いと、父親がいかに大きなことを言ったところでうまくいきません。アボジが言っていることを実行するためには、こうしなくちゃいけないと実践していくのがオモニだから。だからアボジとオモニの息が合わないとね。
金淑子女性たちの立場はよくなったと思いますか?
金福連ずっと良くなりました。言いたいことは言って、やりたいことはやって、堂々と自分の人生を自分の力で歩むようになりました。変わりました。昔は嫁というと家政婦のようにこき使われて、姑にいじめられてというのがありましたが、六〇年代に意識が大きく変わったと思います。七〇年代には政治的に覚醒して、九〇年代には自分の人生を自分の力で歩むという、主体的な姿勢で、どんなこともやり遂げる女性が多くなりました。最近は社会生活や家庭生活においても、主導権を握っていると思いませんか?
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