仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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転換点は一九六二年のオモニ大会
金淑子女性同盟の活動を通じて、女性たちの意識の変化を実感することはありましたか?
金福連オモニ大会が一九六二年三月に新潟で行われたんですが、全国で大勢の若い女性が参加しました。染めた髪を二重三重にアップするのが流行っていた時期でした。同胞のオモニたちは流行に敏感じゃないですか? だから服装やヘアスタイルもちょっと派手で、言葉も日本語が主だったんですが、このオモニ大会を機にすっかり変わったんですね。まずヘアスタイルがカリマになって、どこに行くにもチマチョゴリを着て、できるだけウリマルを使おうと。始め活動家たちが変わったんですが、だんだん同胞女性たちもそれに習って。ウリマルを覚えるためにメモ帳をポケットに入れて、ウリマルがわからないときはメモに日本語を書いて相手に聞いたり、日本語を使った時には貯金箱に罰金として小銭を入れて、それを活動費にしたりして。当時のオモニたちの写真を見ると多くの女性がカリマにチマチョゴリです。気持ちの変化の表れなんでしょうね。子どもを朝鮮人に育てるために朝鮮学校に送ろうという動きも盛んでした。子どもをしっかり育てるためにはオモニがしっかりしなくてはいけないという気風が活動家を中心にだんだん広まっていきました。オモニ大会をきっかけに何度も勉強会をしたりするうちにどんどん変わって行きました。出張に行った時もそんな話をよく聞きました。人の意識変化はそうして表現されるものなんだなと、自分もそうだったなと思いました。
そんな中で分会に出てくる同胞女性も増えて分会委員として活動する人も増えました。そうして大衆基盤が築かれて行きました。じゃあ、次にはこういう議題で集いを開こうというように、一段ずつ組織の基盤が固められていきました。そうした動きが一度も中断されることなく七〇年間受け継がれてきたのです。女性活動家の強さがわかるでしょう?
六〇年代の韓日会談反対や帰国活動の再開要求、民族教育権を守る闘いにも、本当に命を懸けて挑んでいました。だから握り飯を握って座り込んでも、へこたれることを知りませんでした。幼い子がいるオモニは乳母車に子どもを乗せて闘いました。その子供が今活動家として代を継いでいます。
七〇年代から八〇年代になるとやはり世代が変わりました。思いをぶつけるだけではなく、より効果的な方法を模索するようになりました。会費をもらいに行くときも何か役に立つ情報をもっていくようになりました。その場限りではなく積み重ねを重要視するようになりました。今はなおさらです。闘い方も変わりました。昔はそうしようにも知識がありませんでした。だからどうにか相手の心を動かそうとしましたが、今の人たちは知識も豊富で有能です。国際舞台で権利問題を訴えるときも物おじしないではっきりと主張できるようになりました。私たちは、対外活動の基礎を作りましたが、今は若い人たちがその上にしっかりと積み上げています。立派です。
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