仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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上から雨水、下から汚水が
金淑子朝鮮大学校はどうでしたか?
金福連試験を受けて朝大に入ったのが一九五八年でした。朝大の校舎を見ると、通っていた日本の大学とは雲泥の差でした。東京朝鮮中高級学校の敷地を借りて建てた小屋で、雨が降ると上からは雨漏りの雨水が、下からはトイレの汚水が教室の中に上がってきて、大変でした。そこで一年と少しの間、勉強しました。一年目は「ボルシャヴィキ」だとか「メンシェヴィキ」だとか聞いたこともない言葉が行きかっていて何もわからないし、面白くないし、遅刻したり、嫌な時はよく欠席したりしていました。
ウリマルは、アボジがやっていた夜学で少し勉強したくらいでした。建国学校ではすべて日本語でたまに朝鮮語を少し織り交ぜるという感じで、ウリマルを一から勉強したりはしませんでした。家で両親が話す慶尚道の田舎の方言は聞いていましたが、朝鮮大学ではウリマルを習得するのに苦労しました。その日習ったことを翌日に試験するので、夜中に一生懸命覚えて。
当時は年齢もまちまちで、結婚してやめた人もいました。途中で帰国する人も多くて、入学当時は六〇人くらいいましたが、最後に残ったのは三〇人足らずだったと思います。女性は政経学科が二人、文学科が一人、物理や数学を専攻していた人もいましたが、帰国したりして、卒業したのは三人だけでした。十条に大学があったころは船橋に寮がありました。船橋から通うのは大変でした。
人生観変えた富山での「夏期宣伝隊」
金淑子よく辞めなかったですね。
金福連チョゴリを着た夏期学校の児童(1959・8 富山県本部前)金福連・大学二年の夏休みに「夏期宣伝隊」で富山に行きました。この時も何もわからないで行って、夏期学校でウリマルや歌や踊りを教えていました。八月一五日の解放記念日を、チマチョゴリを着て祝おうということで、夜な夜な一緒に縫物をしながらオモニたちの苦労話を聞いていると、自分のオモニの姿と重なりました。女性ということで、朝鮮で苦労して、日本に渡ってきてからも貧しさと差別で苦労して、そんな中で子どもを産んで、こんなに大変な思いをしながら朝鮮人として生きているのかと。朝鮮大学で学んでまだ一年と数か月で多くのことを知っていたわけではないけれども、それでもいろいろ考えました。八月に活動を終えて帰るときも、よくやってくれたと、子どもたちに朝鮮語も教えてくれてありがとう、あんなに楽しい8・15は初めてだったと、お土産までいっぱい準備してくれて。感動しました。この時初めて朝鮮大学校で勉強して在日朝鮮人のために何かしなくてはと思いました。同胞たちの生活の中に入って学ぶことが多かったのです。
金淑子その後、変わったんですか?
金福連3人の4期生と一緒に(1959・秋 中央が金さん)金福連・夏期宣伝隊を終えて残りの夏休みを大阪の実家で送りました。オモニが、「お前がウリマルで祖国について、金日成将軍について話すなんて考えもできなかった」「送るときは、どうなるかと不安でいっぱいだったけど、こうしてオモニにウリナラについて教えてくれるようになるとは」と言って、涙していました。その時初めてオモニが自分の生い立ちについて話してくれました。「両親さえいればオッパ(兄)や私を他人の家の小間使いに送ることはなかったはず」だと。「あまりに辛い思いをたくさんしたので、自分の子どもは男であれ、女であれ、勉強させると心に決めていた。その甲斐があった」と。今もあの時のことを思い出すと涙が出ます。
日本の大学に通っていた頃、正月や祭日には袴を着なくてはいけないので、グリーンのものと紫のものを持っていました。それをオモニがみなほどいて、チマチョゴリに作り変えてくれました。それで夏休みが終わって大学に戻るときに持たせてくれました。それ以来、大学ではいつもそのチマチョゴリを着ていました。それまでは洋服しか着なかったのですが、それからはいつどこに行くにもチマチョゴリでした。そうすると同胞たちも歓迎してくれて。それまで来ていた服はみんな大阪に送りました。
富山に行った後は大学での生活も変わりました。ウリナラへの帰国の道が開けたことが弾みをつけました。ウリナラからの船が入港したときに新潟に行くと、朝鮮大学校生を大変ほめてくれるんですよね。新しい校舎に移った後も、最初は寄宿舎がバラックでした。建設の毎日が続くんですが、嫌だとか思ったことがないんです。情熱に燃えていたんですね。燃えて、燃えて。
オモニたちの姿に感動しながら
金淑子大学を卒業してすぐに女性同盟で働くことに抵抗はありませんでしたか?
金福連1960年代後半の女性同盟の専従活動家(旧朝鮮会館の中庭)金福連・いいえ、女性同盟がどういうところか知らなかったので、全くありませんでした。朝鮮大学校に入るときも、団体生活については何もわかっていませんでした。ただ朝鮮人が集まってウリマルと文字、考え方を勉強すると思っていました。規律は日本の学校にもあるので、それは学生として当然守るべきものだと思っていました。
東京に残って女性同盟中央で活動しなさいと聞いた時は、大阪に両親がいるから、帰りたいなという思いはありました。でもいやだという思いはありませんでした。大人たちと一緒に社会生活をするんだなという感じで。ところが入るや否や…。当時の組織は複雑でしたから。その中でもまれました。
初代委員長は知りませんが、朴静賢委員長や徐金安顧問をはじめ先輩たちのもとでたくさんのことを学びました。何もわからなくて初めの頃はあたふたしていました。ガリ版の切り方も知らなくて、「今日中にこれを全部ガリ切るように」と言われても、どうしていいものか。鉄板の上に薄い紙を置いて鉄筆で書いていくのですが、破れないかと心配で。これはこうして、あれはああしてと教えてもらうと、言われたとおりにしていました。「たまには頭を使いなさい!」と怒られることもあったんですが、わからないのでしようがありません。「朝大で四年間も勉強してこんなことも知らないのか」とよく言われました。でもそうして一つ一つ学んでいきました。
女性同盟で活動して、自分は同胞たちの生活を本当に知らなかったと思いました。その日暮らしで、夜中に作ったどぶろくをリヤカーで引っ張っていって工事現場で売りながら、鉄くずを拾い集めながら、その日暮らしで子どもを育てて、それでも女性同盟の集まりには出てきて会費を出して、寄付を出すオモニたち。権利獲得のための集会に行く日の前日には、徹夜して仕事を片づけて参加するんですね。そんな姿に感動しました。封建的な社会の中で奴隷のように虐げられ、植民統治のもと、日本人の下で牛馬のように扱われたオモニたちの実体験がそうさせたのだと思います。自分の祖国が無ければ生きていけないという思いがあったのでしょうね。民族差別は相変わらずでしたが、解放された民族としての自負心、自分たちの真の祖国を持ったことへの誇りがありました。
女性同盟中央で活動するようになって生活指導をしたり講演をしたりするようになって、建国学校の同級生たちや昔の私を知る人の中では「一八〇度変わった」と噂になったそうです。
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