仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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説得に根負け「東京に遊びに行くわ」
金淑子では大阪で育ったのですか?
金福連戦争当時、大阪の三島郡味生村という田舎に住んでいました。軍需工場があって、空襲がひどかったのです。それで子どもたちだけで京都の田舎に集団疎開しました。小学校二年か三年だったと思います。朝鮮人はほとんどいませんでした。山の中のお寺に集団疎開して、二年ほどいました。勉強もできなくて、昼は農家に行って芋ほりとか、雑用をして収穫を少し分けてもらって、夜食べるという生活でした。学校単位で行ったので、先生もいて、先生の指導に従って生活していました。幼い頃は、帰り道に石を投げられたり、木の上から物を投げられたり、いじめはありました。そんなことが積み重なって殴り合いの大喧嘩になることもありました。「チョウセンジン、チョウセンジン、ニンニクくさい」となじられるようなことは日常茶飯事でした。後ろから追いかけられて怖い思いをしたこともありました。委縮して、自分から声をかけるようなことはありませんした。
戦争が終わって帰ってきたときには学校が燃えてありませんでした。それで小学校も卒業できなくて。学校にも行けなくて家にいたのですが、朝鮮人連盟の役員をしていたアボジと有志が、吹田や東淀川に住んでいる子どもたちも呼んできて、小屋のようなところでウリマルを教え始めたので、そこに通いました。私は日本の塾のようなものがあったので、そこにも通いながら、中学からは白頭学院建国学校に通いました。
金淑子じゃあ、建国学校から朝鮮大学へ?
金福連いいえ、医者か薬剤師になりたいと思って、日本の大学に少し通いました。中学生の頃、盲腸をこじらせて腹膜炎になって一年ほど入院生活をしたことがあったんです。その時の経験から医療関連の仕事に就きたいと思っていたのです。当時は医学部に入るためには、大学で二年間の教養課程を修めることになっていました。それで関西外国語大学の短期教養学部に通っていました。
両親は私に民族性がないことを大変気に病んでいたそうです。建国学校は日本の学校と同じカリキュラムで先生は日本人やイギリス人もいて、始めの頃は朝鮮人の先生はほとんどいませんでした。しばらくして、のちに朝鮮大学校の先生になられた李時求先生(物理)や金世炯先生(体育)、朴文国先生(世界地理)たちがいらしたのですが、すぐにいなくなって、東京に行ってしまったようです。総連ができる前で、線引きもあやふやな時期でした。建国学校は進歩的な彼らをあまり歓迎しなかったのではないでしょうか? 朝連、民戦の時代はそういう時代ではなかったのかと思います。
朝大4年制 第1期入学式後の記念写真(1958・4)日本の大学に入ってからは、大阪の教育部で活動なさっていたコ・シマン先生とキム・ジョンミョン先生(のちに朝鮮大学校教員)が度々家にいらして、留学同に入れと言われて一応入るには入ったのですが、活動はまるっきりしていませんでした。オモニは、私を朝鮮人として育てないと、先はないと思っていたようで、何とか朝鮮人の自覚を持たせたいと思っていたようです。それで両親から、当時創立された朝鮮大学に行けとしきりに勧められて、とうとうその説得に根負けして大学に行くようになりました。ちょうど「有楽町で逢いましょう」という歌がはやっていたので、東京に対するあこがれもあって軽い気持ちで東京に行くことにしました。
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