仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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「裸足で歩いても、勉強はさせる」
金淑子当時、娘を四年制の大学に送る親は多くなかったと思うのですが。
金福連私たちが朝鮮大学校四年制の初の卒業生です。政治経済科が二人、文学科が一人でした。両親を早くに亡くし、あらゆる苦労をしたオモニは、学校に関すること、学ぶことに関しては何をおいても優先してくれました。兄も私も妹も、弟も、厳しい生活の中で大学を出ました。アボジが、以前働いていた日本人の工場から、下請けの仕事を受けて、小さな手工業の工場をしながら、組織の仕事をしていました。失敗したりいろいろあったのですが、そういうときはオモニが買い出ししたりしながら家族を支えて私たちを学校に送ってくれました。「何もなくて、たとえ裸足で歩くことになっても勉強だけはさせる」というのがオモニの口癖でした。
金淑子ご両親はどこの出身ですか?
金福連慶尚北道・義城郡です。両親が結婚したのはオモニが一八歳、アボジが一一歳の時でした。昔の封建時代の名残です。
オモニは幼い時に両親を伝染病で亡くして、兄と一緒に暮らしていたそうです。アボジの家も貧しくて、アボジは幼いころから他人の家の小間使いをしながら夜、書堂に通って文字を習ったと聞きました。アボジの家は男六人、女一人の七人兄弟で、家事をする人がいなくて困っていたようです。そんな時、かわいそうな女の子がいると聞いて、働き者だということで、嫁として引き取ったようです。なのでアボジが一一歳、オモニが一八歳、アボジが書堂に通っている頃に結婚したことになります。オモニは幼いアボジを膝にのせて、機織りしたと言っていました。
金淑子日本にはどうして?
金福連最初はアボジが一人で日本に来ました。下関に着いて、日本各地を転々としていたようです。北海道で働いていたこともあったと聞きました。炭鉱や農場、工場を転々としながら住所も定まらなかったんですが、大阪に来て、ようやく落ち着いたようです。その間、オモニはアボジの実家で家族の世話をしていたのですが、そこの面の面長が大阪に住んでいるという話を聞いて、訪ねていくようにと手続きをしてくれたそうです。当時は、日本の軍歌「見よ東海の空明けて…」(愛国行進曲)が歌えないと釜山から下関に向かう船に乗せてもらえなかったそうで、何も知らないオモニがその歌だけははっきりと覚えていました。意味も分からず覚えたのでしょうね。そうして下関に着いて、面長が書いてくれた鉄道の駅を書いた図を頼りに大阪にたどり着いたものの、大阪のどこに行けば会えるのかわからずに何日もあちこち迷い歩いたそうです。そうするうちに〇〇にいると言われて、そこに行ったものの始めは会えなくて、いつか戻ってくるだろうと、孤児のようにひたすら待っていたそうです。何日もしてようやく出会って一緒に住むようになったと言っていました。
当時すでに兄と姉がいたのですが、オモニが日本に渡った後は、二人は慶尚北道のハラボジの下で、二〇歳頃まで育てられました。オモニが日本に渡ってきて始めに生まれたのが私です。私より下は日本生まれです。すぐ上の姉と私は一〇歳以上離れています。始めは兄と姉のことがよくわかりませんでした。解放後、ハラボジが兄と姉を連れて日本に渡ってきたんですが、ハラボジは「日本にはとても住めない」と言ってすぐに故郷に戻って、亡くなりました。姉は日本に来てすぐに結婚したのですが、その後、嫁ぎ先の家族と一緒にウリナラに帰国してしまいました。姉は本当にかわいそうです。親の愛情を知らないで育って、日本に来てもすぐに嫁に行って、ウリナラに帰ってしまったので。兄はそれでも男性だし、日本に来たあとは、結婚した後も両親と一緒に暮らしたので。
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