仕方なく行った朝大、転機は「夏期宣伝隊」 同胞たちの中で成長した日々、心残りは統一
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プロフィール
金福連・朝鮮大学校第四期、四年制第一期卒業生
1935年 12月生まれ
1951年 白頭学院建国中学校卒業
1954年 白頭学院建国高等学校卒業
1958年 関西外国語大学(2年制)卒業
1962年 朝鮮大学校 政治経済学科卒業
1962年4月 在日本朝鮮民主女性同盟 中央本部職員
1986年10月 同同盟 東京都本部 副委員長
2001年9月~ 同同盟 東京都本部 顧問
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「辛いと思ったことなかった」
金淑子(五月)二九日の朝大創立六〇周年記念行事はどうでしたか?
金福連鷹の台の駅を降りるとすっかり変わった街並みがあって、数十年の間にこんなに変わったのかと、本当に感慨無量でした。私が学生だった頃は、多摩川浄水の両側に道があるだけでした。森林の中で、今のような道路もありませんでした。久しぶりの大学でした。私たちが一生懸命建てた一部の建物もすっかり古くなって、寄宿舎の壁が落ちたりして、歳月が流れたのですね。教室を回りながら、授業を聞いた席に座って当時を思い出したりしました。
初めて校舎を見た時を思い出しました。あのときは涙が止まりませんでした。大学二年生の頃でした。ある日、突然集まるように言われて、トラックに揺られて武蔵野に向かったんです。夜中に着いてバラックのようなところで寝て起きたら「共立産業会社」という看板が見えました。「え! 会社? 大学じゃないのかな」と。明るくなって校舎の階段を登っていくと立派な教室がいくつもあって、あの時流した涙は、忘れません。本当に止まりませんでした。
小平に移った後も寄宿舎はバラックでした。[前号80頁参照]バラックは屋根がトタンなので隙間があるんですよね。冬に霜が降りると、眉毛や髪が凍って白くなることがありました。寒かったんですね。当時は暖房がありませんでしたから。みんな布団やカイロ、湯たんぽで暖を取っていました。バラックなので、火は危ないじゃないですか? 校舎にはいくつかのスチームストーブがあったのかな? でも広いのでそれほど温かくはなかったはずです。それでも寒いなんて思いませんでした。十条の仮校舎に比べるとずいぶん暖かかったです。武蔵野は風が強くて砂埃がすごかった。おまけに木の根を掘って工事をしているので、教室も寄宿舎もどこもかしこも砂埃だらけで、いくら掃除しても追いつかなくて。顔も真っ黒で、埃だらけの格好で電車に乗って国分寺の風呂屋に行っていました。お風呂は、卒業する頃にできたんですが、水が出たり出なかったりで。それでも楽しかったです。それが今は良い思い出です。辛いと思ったことはなかったですね。大変だと言いながらもどうなっていくんだろうという楽しみがあったし、やりがいも感じていたし。同級生は苦楽を共にしたので、今でも仲がいいです。
金淑子それまでの十条の仮校舎はどうだったんですか?
金福連雨が降ると、雨漏りもそうなんですが、トイレの汚水が教室に流れ込んできて。前で先生が一生懸命講義するので生徒も一生懸命聞いていましたが。あちこちに虫もたくさんいたようで、知らないうちに刺されてはれ上がって熱が出て病院に行くようなことも何度かありました。当時は高級部の生徒たちも大学を馬鹿にしていました。「朝鮮大学、朝鮮大学、何が大学だ」と。朝高は大きくて、その裏に間借りした小屋の建物だったので。「朝鮮大学、ぼろ大学」と。
金淑子小平に移った後は工事の日々だったんじゃないですか?
金福連・そうです。私たちの頃は、運動場に残っていた大木の大きな根を抜くのに苦労しました。朝の九時から午後三時まで労働して、夜に勉強しようとすると疲れて眠気が来るんですよね。でも先生が一生懸命講義してくれるので、半分目をつぶりながら聞いたりしていました。中庭の広場で一橋大学や津田塾大学、東京経済大学の学生たちと交流会をしてフォークダンスをしたりしました。そんなことあんなこといろいろ思い出されて。
労働を終え同級生と(1959・1 前列右から2番目が金さん)金日成主席が教育援助費を送ってくださって、組織があったから、こうして発展して、どこに出しても恥ずかしくない大学になったのでしょうね。総連が無かったなら、私たちが誇りに思えるものなど何もなかったはずです。これが遺産となって、熱意を持った同胞たちがいて、活動家がいるから、祖国に背を向けることなくこうして生きていけるんでしょうね。そういう意味では私の人生を決定的に変えたと思います。
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