東日本大震災五年 チャリティーライブ開いた 朝鮮大学校音楽科同期生
スポンサードリンク
スポンサードリンク
見違えるほどの上達
朴昭暎通信では自分の器量を追及します。みんなで一緒に受ける授業もあって、そこで点数が良い悪いはありますが、どれだけ練習するかにかかっていますから。
金淑子理論も勉強するんですか?
朴昭暎理論・チャンダン・律動の授業と実技がありました。マンツーマンの授業もあれば日本から来た先輩や後輩とグループでレッスンすることもあるし。そんなレッスンでは後輩や先輩から学ぶことも多いです。
金淑子三年間みっちりやるとやはりレベルが上がりますよね。
金嬉仙一年の時に昭暎と同じ部屋で、いつも練習する声を聴きながら頑張っているなと思っていました。二年目に行ったときに、「パダエ ノレ(海の歌)」を練習している声が聞こえてきて、あまりに上手なので、ウリナラの人かなと思ったんですが、昭暎でした。あまりの上達ぶりにびっくりして、「いかん、いかん、自分も頑張らねば」と思ったことがありました。
朴昭暎日本に戻った後、放課後はバレー部の練習なので、朝早く登校して、学校のベランダの端っこで、一年目のウリナラでのレッスンのテープを聞きながら毎日練習していました。ウリナラでの一か月が勝負なので、全部吸収しなきゃと思っていました。日本に帰ってくるとまたいろいろな現実が待っていましたから。バレーボール部なのに中央大会を前にした一番大切な夏休みにウリナラに行っちゃうし、いろんなしがらみもあって。
目標にしていた高三の中央芸術競演大会が大阪で行われる予定だったんです。それでその交通費を親に出してもらうために、高二である程度成績を残そうと、高二の時に東京で行われた競演大会に出ることにしたんです。銀でも銅でも取れれば、リベンジで金賞取りに大阪行くという口実ができますから。ところが当時競演大会の独唱は、学校代表が一人だけで、三年生が出るのが恒例でした。そんな中、わたし一人金賞を獲ったので他の学校の先輩からもひんしゅくを買いました。大阪で行われる予定の翌年の中央大会に出るためには、しようがないことでした。ところが大阪で開催予定の高三の時の中央大会が、平壌学生少年芸術団が来日するということで、急きょ東京で開かれるようになりました。結局芸術団の訪日も無く、でも大阪行きもなく、東京で参加して再度金賞を取りました。
金淑子器楽組はどうでしたか?当時は男子が多かったんですかね?
金秀一今は女子ばかりですが、僕たちの頃は男子が多かったです。通信学部の時は、民謡の合唱曲や最近の歌をアレンジした曲をやるんですが、一か月びっしり基礎から手取り足取り指導してくれます。練習室が隣同士で、ほかの生徒の練習の音も聞こえてきて、影響を受けます。刺激を受けて、練習が面白くなります。
金淑子ウリナラでは洋楽器と一緒に演奏することが多いですよね。
金秀一そうですね。民族楽器だけの編成もあるんですが、オーケストラの編成の中で演奏することもあります。
金淑子洋楽器に音がかき消されそうな気もするのですが。
金秀一確かに音のボリュームは違います。でも民族楽器の音が単独で聞こえなくても、加わることで音楽に幅が出るというか、味わいが加わります。アリラン協奏曲なんかでも民族楽器とフルートでは全く味わいが違います。「チョンサンポルに豊年が来た」はセナプなしには考えられません。
「勝手に統一」韓国での公演
金嬉仙高級部三年の年は、七月末から八月までウリナラに行って、日本に戻ってきて二週間後くらいに韓国に公演に行きました。
朴昭暎高三が七人と、通信教育を受けた一部高二で。ソウルと全州で公演しました。
金嬉仙通信学部で卒業舞台に立って、そういう貴重な経験をして、その数週間後に韓国で初めて韓国の人の前で公演するという大きな経験が二つあって。私は元々、朝大音楽科にいこうなんて選択肢はなかったけれど、やっぱり、もう少し音楽の勉強したいなと思いました。それまでは音楽で食べるなんてできないし、趣味でいいやと思っていたんです、。通信に行きながら。でも高三でそういう大きな経験を二つして。
朴昭暎その年はまたワールドカップを日韓で共催した年で、横浜でも試合が行われたりして。
金秀一八月に共和国にいて、九月にソウルにいて。
朴昭暎もう勝手に統一でした。初めてソウルで見た風景がまたウリナラにそっくりで、
金嬉仙山とか河が本当にそっくりで、祖国の山河なんですよね。同じだって思いました。
朴昭暎草とか木の色づき具合とか、
金嬉仙本当に日本じゃないよね。ウリナラ、朝鮮だった。
朴昭暎南でのスケジュールが殺人的でした。ハードすぎて。
金嬉仙晩餐しか覚えていない。いつも晩餐なんです。
朴昭暎部屋に帰ってくるのが遅くて、疲れているでしょ。次の日朝から移動だなんだと忙しくて、一週間。あまりにハードで日記もつけられないくらいでした。
金嬉仙私が覚えているのは、全州で食べた全州ピビンバプがおいしかったこと。
金秀一行く前に講習会やったよね。
金嬉仙中央学院で。
朴昭暎私は高三で最後の中央体育大会だったけど、日程がかぶったので出られませんでした。リハーサルの後に衣装や演目が大々的に変更になったり、とにかくドタバタしていたのを覚えています。準備する先生方はもっと大変だったのではないかと思います。
金嬉仙統一ムードも盛り上がっていた頃で、当時はこれから相互でこのような交流を毎年するって話だったのですが、結局一回だけだったんですよね。
朝大「軽音楽団」での活動
金淑子そうして朝大・音楽科に行って、音楽科での二年間は楽しかったですか?
朴昭暎十四人中六人が通信学部に通った生徒でした。通信学部に行きたかったのに行けなかった志のある人たちもいて、その道で青春を突っ走ってきたメンバーが基本でした。皆が音楽に対する何らかの思いを持っていました。私たちの学年は特別だったのかもしれません。
金嬉仙朝大では当時の「芸術団」に所属してバンドの音楽活動をやっていました。昭暎も一緒でした。
金淑子朝大の軽音楽団が結成された始めの頃の世代ですか?
朴昭暎私たちがちょうど十年目の学年でした。最初は「何が軽音楽だ、日本のJ‐POPみたい」と言われていましたが、朝鮮の歌をアレンジして演奏したり、オリジナルの曲を作詞、作曲して毎年CDも製作したり活発でした。ちょうど私たちが二年の時に、名前を「軽音楽団」と改めました。
金秀一僕は民族器楽部だったので、「軽音楽なんて」と思っていました(笑)。今だから言えますけど。
朴昭暎でもコラボもしてたよね。セマチ(サムルノリのクラブ)とか民族器楽部の一部の人たちとか。学内でコンサートするときには、ほかの学部の先輩が「今日、頑張って」と声をかけてくれて、応援してくれる人も多くて。
金秀一公演自体は面白かったです。見に行く人たちは、有名歌手のライブ会場に行くように、ワクワクしていたと思います。
金淑子一昨年、このコーナーで軽音楽団の座談会をやりました。その時に学内のコンサートも見に行ったんですが、北にも南にも、日本にもない、在日朝鮮人独自の文化で、面白いなと思いました。
金嬉仙実際に軽音楽団の曲で、初級部の児童や中級部、高級部の生徒たちに親しまれて歌われる歌がたくさんあります。私たちの頃は、今ほどK-POPが入ってきていなかったので、あまり影響を受けていませんでした。
同期生で「シミルレ」ライブ
朴昭暎音楽科はたった二年間でしたが、人間関係も良くも悪くも濃密で、卒業して十年以上経ちますが、ほとんどの同級生がいまだに音楽にかかわっています。
金嬉仙私は卒業後、音楽の専門学校に通いました。そこから自分で曲も作り出して、歌いだしました。こっちの道で頑張ろうかなと思い始めたのはその頃です。
朴昭暎私は南武初級学校で三年間教員をしました。その後、今勤めている日本の会社に入って、その傍ら東京朝高の合唱部の専任講師をやって、今年九年目になります。去年は栃木のハッキョの音楽の講師もやりました。この何年かは地元神奈川の文芸同音楽部「MU(ミュー)」の活動も活発になって、そこで歌ったり、演奏したりして。たまにはこうして同級生とライブをやったりしています。
同級生が集まって音楽をするようになったのは、二〇一〇年に嬉仙と私と金剛山歌劇団で活動しているトンムと三人で企画して、大学の軽音楽団の同級生なんかも参加して「シミルレ」ライブをしたのがきっかけでした。その数か月後、震災があったので、被災したハッキョの卒業式に送る歌を作ろうと集まったのです。
金淑子二〇一〇年に集まるきっかけがあったんですね。
朴昭暎そうなんです。
金嬉仙年齢的にこれからは結婚して、子供を産んだりしたら、好きなことばかりできなくなるし、なかなか集まれないだろうからということで集まったんですが、まだ一人しか結婚していなくて、子どもがいる人も誰もいないんです。(笑い)
朴昭暎みんな今も好きなことやっているし。でもその時は三十代を前に同級生でライブをしたら面白いだろうなと。九月に恵比寿で日本の曲やウリナラの曲をやったんですが、みんな見に来てくれて、結局二百人以上集まってくれました。フライヤーなどデザイン関連は美術部出身の同級生で、震災時にいろんなところで使われた「ハンマウム」のロゴを作ったトンムが担当してくれました。
金秀一ライブ会場に人が多すぎて、オーナーに「人、入れすぎです」って注意されるほどでした。立ち見がすごくたくさん出て。
朴昭暎。入り口に行列ができてほかのお店に迷惑がかかるほどで。
金淑子集まったのは同胞たち?
朴昭暎基本は私たちの世代でした。
金淑子高級部の時代に祖国に毎年一か月行って、その前にはソルマジにも行って、ウリナラが近いんですね。
金嬉仙はい、ウリナラ大好きです。行きたいです。でも十年くらい行っていないです。
朴昭暎私は最後に二〇一二年に行ってきました。朝青イルクン代表団で。それが最後です。
金秀一僕は二〇一三年です。歌劇団の公演で。四月の春の祭典で。金剛山歌劇団は、新入団員は必ず行けるんです。それ以来七年ぶりに、二〇一三年に行きました。
金淑子ウリナラの音楽が好きなんですね。
全員・はい。
朴昭暎今はYoutubeで最近の歌も入ってくるので、例えば去年、党創建七〇周年で大同江に水上舞台を組んで行われた一万人公演なんかも、アップされたらすぐに音楽科の同級生にシェアして、あれがいいとかこれがいいとか論議します。論議できる人たちがいるから。
金嬉仙ウリノレの旋律には、日本の曲や外国の曲にない美しさがあって、自分が曲を作るときもウリナラのきれいな旋律を取り入れたいなと思っています。
仲間がいることのありがたさ
金淑子在日朝鮮人としてどんな存在でいたい?
金秀一今回のことを通じて、できることがあるなら今後も続けていきたいと思いました。ちょっとでも力になれる存在であればいいかなと。
朴昭暎一人ではできない。同じ気持ちになれる仲間に恵まれたから思いが形になりました。曲を作りたいなと思った時も一人ではできなくても、やろうと思えばできるかなというつながりがあって、音楽ができる仲間がいてこその、これまででした。仲間がいることの大切さやありがたさや素晴らしさを、音楽をやりたいなと思っている新しい世代に伝えたいなと思っています。夢があって何かやりたいというときも、ハードルを上げすぎてあきらめることがよくあります。例えば職業として成り立たなかったらやらないとか。そうではなくて、別の職業を持ちながらでもできるし、形はいろいろあるよということを伝えたいです。自分もまさか曲を作って、その曲が世に出るなんて考えもしていなかったし。私たちは同胞社会に限定したグループだけど、意外と珍しい存在かなとも思います。私たち三人のユニットは同胞社会に特化して、そこにずっと寄り添ってやっている。普段はバラバラで。そういう新しい形を自分たちで模索して、細く長くできればと思っています。震災復興のチャリティーライブをやりたいと思いながら、五年もかかってしまったが、五年に一度でもいいから続けていくとか。欲を出してもダメなので。
金・やってみてどうでしたか?
朴昭暎五年かかったけれど、いろいろ積み上げられたのかなとか? 震災の前の年に同級生たちでやったライブ、シミルレライブも、決まったのは早かったのに忙しくて、直前にあわただしく準備しました。でもあのシミルレライブをきっかけに、結婚式だとか同胞の集まりなんかでちょくちょく歌うようになったので、自然とレパートリーも増えて、自分たちの呼吸も気づけばとてもあってきて、新しい歌も作ったりとか、積み重ねの大切さをつくづく感じました。
金淑子あきらめたらそこで切れてしまうものね。
金嬉仙自分ひとりだったら、できなかった。三人だから生まれた歌詞、今回の公演。私はほかで音楽をしていますが、ここで生み出していく音楽は大切にしたい。二人とも志があるトンムで、一緒にいて、すごいなって。同胞のためにという清らかの心を持っているなって。それに子どもたちが歌ってくれるのが本当にうれしくて。歌を作るというのは、魂をすり減らす作業、おまけにウリマルで作るのは慣れていないので、本当に大変。特に「チャブン ソン」は震災から一年経って、もう一曲作ろうということで作ったんですが、あの曲を作るのは本当に死ぬほど大変でした。
朴昭暎私たちは詩人じゃないので、そういう能力がない。誰かに頼むことは簡単だったけれど、それではだめだなと思いました。
金嬉仙曲を作るうえで共作っていうのも本当にむずかしくて、一人で作った方が楽な時もあります。でもそうやってできたので、また何年かかるかわからないけれど、聞いた人が口ずさんでくれる、私たちしか作れない音楽を、また作れたらいいなと思っています。
同胞社会に寄り添って
金淑子ウリハッキョの児童、生徒が減少していて、同胞社会の先細りが不安ではない?
朴昭暎私は今も学校で子どもたちに接する機会が多いですが、今は人数が少ないので、個人の力や、個性を重んじています。でも一方で私たちが当たり前に感じたり、触れていたいろいろなことを知らないで暮らしている。人数も減っている中でも、なるべくそういうリスクを取り払って、いろんな刺激を与えたいと思っています。在日同胞が作った今風の曲が子どもたちの感情にも合うし、好んで歌うけど、昔ながらのウリナラの歌もかっこいいんだよという感性を育ててあげたい。時代が変わっても民族性が薄れてはいけないから。男の子が宴会の場で歌うことになったとき、今は「われらの誇り限りなし」とか歌うけど、もっとコテコテの歌を歌えるとかっこいいんだよっていうことで民謡の「ノドゥルカンビョン (ノドゥルの川辺)」とかひたすら教えたりしました。教科書の音符のままでなくて、思い切りうなりを入れて、耳で覚えるように。
金嬉仙全体的に少子化と叫ばれているので子どもの数が減っているのはしようがないけれど、ウリハッキョの生徒数が年々減って、いろんな学校が無くなって行って。
金淑子そんな中、在日同胞の歌は同胞たちの感性をつなげるうえで大きな役割を果たせるのではないかと思うのですが?
金秀一確かに僕も中学の時はサッカー部だったけど、そのままだったら、こんなことはしていない。音楽で同胞社会とつながっている。
朴昭暎ライブをしていても、観客の同胞から熱いものを感じます。音楽で会話しているような感じがするんですよね。
金嬉仙普段は日本の人とユニットを組んでいて、たまにライブもするんですが、あの復興支援ライブはそれとは違いました。被災地支援ということで思いが一つだったということも大きかったと思います。歌いながら、心で聞いてくれていると感じました。
金淑子テピリを吹きながらそんなことを感じることはない?
金秀一いつもは隅の方で引き立て役だけど、ライブではテピリの音に聞き入ってもらえる。すごくあったかく感じた。ライブをやるたびに、他にはない感じがあります。
これからも音楽と共に
朴昭暎昨年一年、栃木のハッキョに音楽講師としていきましたが、地方は東京ほど同胞も多くないし、ネットワークも活発ではありません。でも子どもたちの持つ力、音楽・芸術のもたらす力は何よりだと実感した一年でもありました。全同胞が参加する同胞文化祭の時に、私も二曲も歌わせてもらったのですが、すごく喜んでくれて。その場で踊りの輪が広がったり、この光景はいつまでも変わらない「風景」ですよね。
金淑子今年は栃木にはいかないんですか?
朴昭暎今年は自分の実力を磨こうと思っています。コンクールに出てたくさん経験を積んで。出来れば結果も出して。
金淑子今も引き続きレッスンに通っているんですか?
朴昭暎はい、同胞の先生について。これも九年目です。
金淑子金秀一トンムは今後どんな音楽活動を?
金秀一ピリという民族楽器を、韓国を行き来しながら習っています。
金淑子南に行って演奏を習いながら、何か言われることはない?
金秀一金剛山歌劇団にチャンセナプを習いに来ていた人で、以前から顔見知りだったので。日本に三年くらいいたんですが、その時はそんな人だと知らなかったんです。韓国で昔の楽器を専門にやっている人なんです。
金淑子通信学部でウリナラで習った時と、感性の違いなんか感じる?
金秀一韓国で国楽が奏でる音楽と共和国の音楽、在日朝鮮人が民族楽器で奏でるメロディーは違う。微妙な差だと思うけど違います。感性が違うんじゃないか。演奏する人によっても表現の仕方が違うし。
金淑子その微妙な差が在日朝鮮人のオリジナリティなのでしょうか。今日は、忙しい中、ありがとうございました。
スポンサードリンク