四日市ハッキョの歩みを辿る:沿革史整理作業記⑯
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一九七五年に現在の校舎と体育館を竣工
申正春・初級部49期・中級部二〇〇三年卒の46期生
二月二七日に日朝友好三重県民会議の第三八回総会が行われ、総会後の記念講演にお声がかかり、「四日市朝鮮初中級学校七〇年の歩み~朝鮮学校の存在意義とは~」という題でお話しさせていただいた。
バタバタと準備したので完璧とは言い難いが、解放前から六〇年代まではほぼ頭の中で整理はできてきた。他にも講演の機会があるのでさらに詰めていきたい。結成時の県民会議のエピソードなども聞くことができた。これもまた収穫であった。
講演でも話したが、五〇年前、1965・12・28文部次官通達が出た後の一九六六年、ハッキョ創立二〇周年の年に日本の方々の様々な協力を得ながら四日市ハッキョは法的認可を得た(連載⑭参照)。現在、「補助金中止要請」なるものが文科省から出されるという報道もある中で、七〇周年を迎える今年、どのように困難に立ち向かっていくのか。改めて考えさせられた。
二月一四日にはハッキョ芸術発表会があったが、今年は七〇周年を迎える年ということでテーマは「継承」、全園児・児童・生徒、教職員合作の「七〇周年の歌」(注1)もお披露目された。四世の子ども達がウリマルで歌う姿はまた格別であった。
注1・歌はハッキョfacebookページで公開されている。
https://www.facebook.com/yokkaichi.chousen.hakkyo/
今回は第二校舎と体育館の建設について述べたい。
一九六五年の鉄筋本校舎竣工と六六年の認可獲得によりある程度教育環境が整い、教育の質をさらに高めるための努力がなされ、様々なエピソードが生まれたことは前回述べた。その集大成ともいえるのが七五年一二月一四日の幼稚班・低学年用の第二校舎と体育館(講堂)の竣工である。
当時、七一年に金日成首相(当時)から表彰を受け、その年一二月には総聯県本部会館も新たに竣工するなど全般的に盛り上がりを見せる中で「教育環境の完備」が新たな目標とされた。当時、本校舎は立派に建てられていたが、旧木造校舎を講堂代わりに使い、七二年に幼稚部が併設されたものの、これもまた木造の建物であった。
そこで新校舎と体育館の建設が提起されたわけであるが、オイルショックなどの影響で経済的には非常に難しい時期でもあった。
それでも七五年二月二三日、当時県商工会会長であった姜萬石氏を委員長とする建設委員会(注2)が発足し、建設事業を進めていく。工費は二千九百万円で本校舎と同じく大風工務店に依頼した。
注2・正式な実行委員名簿などは見つかっていないが、「四日市朝鮮初中級学校新増築事業建設委員会を招集することについて」という総聯委員長、商工会会長、教育会会長連名の召集状があり、工事請負契約書の注文者が「三重朝鮮学園増築委員会建設委員長姜萬石」となっている。
体育館の建設にはまた別の建設委員会が組織されたようだ。こちらは教育会会長金景東氏の名前が契約書に記されている。予算は四千三百四十万円で薫田工務店に依頼した。(注3)
注3・ただ、ハッキョにある工事請負契約書のコピーには収入印紙も貼られ、工務店の印もあるが、注文者の印がなく名前も「学校法人 四日市朝鮮学園体育館建設委員会」となっているのではっきりとは分からない
一九七五年一二月一四日、李珍珪副議長(当時)の参席の下で竣工式が開かれた。
現在はなくなっているが、校舎前に花壇があり、写真のように植樹式が行われた。体育館は講堂を兼ね、緞帳もしっかりあり、公演も可能になっている。
これ以来四日市ハッキョは(改修や塗装はあるが)現在の形となった。(2016・3)36
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