特集)創立60周年を迎える朝鮮大学校
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一九五六年四月二〇日、朝鮮大学を創立
「朝鮮大学新聞」三号
一九五三年初め、教育分野の堅実な幹部たちによって、「朝鮮綜合大学」建設問題が提起されたが、「大学不必要論」によって、実現することはできなかった。しかし、わが運動の現実は活動幹部、特に教員の大量養成を要求した。在日朝鮮人PTA全国連合会と在日朝鮮人教育者同盟中央委員会が中心になり、同年、すなわち一九五三年一〇月に「中央朝鮮師範学校」を創立させ、東京第六朝鮮人初級学校の一部教室を借り、授業を始めた。
しかし、日本文部省と東京都教育委員会は退去を要求してきた。当時、たとえ東京の朝鮮人学校が都立にな っていたとしても、われわれの誠意と汗で築いたウリハッキョ(わたくしたちの学校)の校舎をわれわれが使うのに、このような不当な干渉はわれわれの正当な民主的民族的権利をはく奪しようとするもので、われわれはそれを受け入れることはできなかった。われわれは退去を拒んだ。結局、武装警官隊が襲撃し退去を強要された。
しかし、かといってわれわれはこの事業を挫折させはしなかった。教室を産別会館に移した。日本の労働者の協力を得て、われわれの組織体が借りていたその会館の一室を教室にすることになった。しかし、ここは教室としては適切ではなかった。学校当局者たちはいわゆる学校閉鎖令で廃校になっていた以前の船橋朝聯小学校の教室を改修して、一九五三年一二月に移転し、二階建て三二室の寄宿舎を新築した。第一期生は、就学期間の六か月間、このような試練を体験した。学びの道は文字通り、戦いの道であり、建設の道であった。
中央朝鮮師範学校は、一九五五年四月に「朝鮮師範専門学校」として拡充させることになり、この間、三期にわたり二五〇余名の卒業生たちはわれわれの教育機関をはじめ組織機関に配置され、われわれの教育事業をはじめとする各分野の愛国事業に大きく貢献した。
一九五五年五月、祖国の暖かい配慮と堅実な指導者たちの正しい指導によって組織された在日同胞の愛国力量は、在日本朝鮮人運動において巨大な歴史的事変になる、正しい愛国的な新路線を受け入れ、在日本朝鮮人総連合を結成した。その活動方針には、「現在の朝鮮専門学校をいくいくは大学課程を修了することができる高等教育機関に育成強化しなければならない」と、指摘されている。
総連結成後、その正しい路線によって、在日朝鮮人運動はすべての領域において大きな発展を成し遂げ始めた。すでに方針で展望した大学の創立を早急に実現し、わが民主民族教育の一貫した体系を確立することが要求された。
この現実的な要求性から出発し、一九五五年九月に開催された総連中央委員会第二次会議は「朝鮮大学」創設を決定し、朝鮮大学建設委員会を組織し、その翌年の一九五六年四月二〇日、大学を創立し、第一回入学式を挙行した。これはわが民主民族教育体系を完成させた、画期的な意義を持ち、わが在日朝鮮公民の愛国運動の巨大な成果の一つになる。
朝鮮大学は、栄光に満ちた草創の道を歩み始めた。二年制大学として発足した大学は、語文、地歴、経済、数物、生物化学、体育、芸能の七学科を置き、朝鮮師範専門学校の卒業生を二学年に編入させることによって、開校初年度から二年制の大学として教科課程を実施することになり、いまだ学舎が建設できない条件の下、東京朝鮮中高級学校の古校舎の一つを借り、仮校舎で授業をスタートさせた。
建設委員会は学舎の建設に心血を注ぎ、教員集団は教授内容を大学らしく保障するために努力を傾けた。しかし、この時期我々内部ではいわゆる「大学不必要論」、「時期尚早論」が存在し、この消極的な傾向はわが大学建設事業に大きな支障になった。
このような環境の中においても、建設委員会と教員集団は、祖国の暖かい配慮と総連の正しい施策に鼓舞され、建設事業と教授教養事業を発展させた。一九五七年三月には、第一回卒業生を総連愛国事業の幹部として送り出し、朝文、経済、数学物理、師範の四つの学科の学生を二期生として迎い入れた。建設委員会の努力で、都内に二千余坪の敷地を購入し、学舎の設計図の作成に着手した。
このような苦難に満ちた草創期の道を歩んでいるとき、一九五七年一〇月に祖国からの第二次教育援助費に接した。
祖国人民の貴重な労力の結果であるこの巨額の教育援助費を受け取ることによって、われわれは学舎建設への確信とその任務の重大性を再確認するようになった。わが朝鮮大学が民主民族教育において占める重要性と大学教育の指向性が正しいということを祖国から認められ、評価されていることになり、わが大学が祖国の前に担う任務が大きいことになるからだ。
大学建設当局はもちろん教職員、学生たちの感激もまた大きかった。われわれはこれまで歩んできた栄光の道を一層高い誇りと確信をもって推し進めることになった。一部同胞の中で存在していた大学に対する消極的な見解が後退した。
祖国の教育援助費は物質的だけではなく、精神的にも、わが大学事業推進の後ろ盾になった。わが大学は開校当初から祖国の直接的で、絶え間ない配慮を受けてきた。数多くの教科書と参考図書、教育資料、激励を受けてきた。われわれは大学事業を一層拡大した規模で進めることを決めた。
しかし、すでに開校当初から大学事業にあらゆる妨害をしてきたアメリカ帝国主義と李承晩徒党と日本の反動分子の策動が一層露骨化し、新学舎建設は遅れた。それにも関わらず、わが大学事業は日々発展した。たとえ狭く古い仮校舎であったが、施設は拡充され、教育の質も高まった。多くの学生たちが堅実で、有能な幹部として卒業していった。一九五九年三月まで、三回にわたり、一〇〇余名の卒業生を輩出し、彼らは現在、総連の機関をはじめわが愛国事業の重責を担い活動しており、祖国に進学し学業を続けている。
わが力量の蓄積と客観的な要求性から、一九五八学年度の入学生から四年制の大学として内容を拡充し、文学部に朝文と地理、政経を、理工学部に数学物理、化学、機械の六つの学科を、その教科体制は祖国の大学の課程案に依拠しながらも、われわれが現在置かれている特殊条件とが共に考慮された。
わが大学は、開校以来一貫して、わが教育の優位性を重視してきた。わが大学で学ぶ学生たちは、共和国の公民としての自覚と誇りを持ち、自らの未来に対する限りない希望と揺るぎない確信を持つようになり、祖国と人民への服務の精神に満ち、各専門科目による専門家として育っていった。
わが民主民族教育を受けてきた学生たちは一層高い水準で、また日本の高等学校を卒業してきた学生たちも短期間に新しい型の人間―民主主義的な愛国者として、有能な活動家として育つ。特に、昨年後半、祖国―朝鮮民主主義人民共和国への帰国問題が提起されるや、わが大学内でも雰囲気は日に日に高まり、革新が巻き起こった。これは、帰国問題を中心に、在日朝鮮人運動が総連の正しい組織指導によって、未曾有の高まりを見せている現実の一環であることは言うまでもないが、それはわれわれの誇りである。
特に、今年(一九五九年)になって、共和国内閣決定一八号によって祖国で、四月一日から授業料が完全に免除され、つづく一九号では来る九月一日から一五の大学と五つの技術専門学校の新設が予見されることによって、祖国への感激が一層高まっているとき、総連中央委員会第一六次会議は、朝鮮大学の入学金と授業料の引き下げと給費制制度を決定したのである。これによって、優秀な資質を持ちながらも家庭の貧困によって、大学教育の機会を絶たれた多くの青年学生が自らの素質を祖国の愛によって、育てることができた才能を祖国のために捧げることができる道が開けたのだ。すでに多くの学生が第一次給費生として勉学に励んでいる。
この祖国の暖かい配慮に対する感激は給費生に限らず、すべての学生がわが大学で学ぶことがすなわち祖国の暖かい懐に抱かれて学ぶことであることを強く感じるようになり、「みんなが給費生のように学習成果を上げよう!」と、立ち上がった。祖国の要求する水準に自分を高めようという勢いだった。わが朝鮮大学は今年新学年度を画期的な契機に迎えた。
何よりも厳格な基準で行われた入学試験を経て入学した新入生の数は前学年度の二倍以上になった。
「祖国と人民のためになる真の愛国者になれ」という韓徳銖学長の指示の下、大学は今年度の教授教養事業と科学研究事業の改善、強化のために正しい方針を樹立し、結束した教員集団と学生たちは方針実現に立ち上がり、その方針は成果裏に実践されている。
特に、六月一三日、近代的な規模で建てられた新学舎に移ってきてからは感激と幸福感に浸り、より大きな成果を目指して邁進している。
毎日、全国から多くの同胞たちが大学参観にきている。同時に、日本の国民の支持声援もまた、日に日に高まっている。
朝鮮大学の立派な学舎は、武蔵野の原にそびえたっている。その雄大な姿を眺める在日朝鮮青年学生の心臓は、栄えある祖国に向け、一つの脈として高まっており、すべての同胞の胸は共和国の公民になった誇りで高まっている。36