特集)創立60周年を迎える朝鮮大学校
スポンサードリンク
深刻な教員不足解消のため「師範学校」を開設
「師範新聞」一号
一、開校までの経緯
解放後、在日朝鮮人の教育運動は米日反動勢力の妨害と干渉、弾圧にもかかわらず、発展の一途をたどってきた。このような目覚ましい発展に驚いた米日反動勢力は4・24の大弾圧でわれわれの教育を一気に破壊しようと試みたが、失敗に終わった。
一九五一年頃から一部の地方では公立学校、公立の分校として運営形態を変え、同胞が分散した地域では、日本の学校内の民族教育として復活した。
学校数と児童・生徒数の飛躍的発展は、必然的に教員不足をもたらし、特に新学年度事業に決定的な支障をきたすことになった。このような現状を前に、当時の教育者同盟とPTA連合会では、一九五三年二月一二日、「在日朝鮮人教育権防衛全国大会」を開き、満場一致で、教員養成のための師範学校建設を決議し、学生募集に着手した。しかし、準備不足により、予定した四月に開校することができなかった。しかし、この計画が教員養成のための具体的活動のきっかけになり、同年五月に開催された民戦第一〇回中央委員会では、一千万円の基金で、その年の秋から教員養成のための師範教育を実施することを決定した。
この方針に基づき、六月二七、二八の両日、京都で開かれた教育者同盟とPTA連合会の合同全体大会では、(決定を)積極的に推し進めることを決議し、民戦中央は七月七日に文教委員会を招集、七月一七日に師範学校期成委員会を開催することになる。その後、師範学校建設問題は、高等教育を実施することができる総合大学にその規模を拡大強化しようという意見が台頭し、その方向で準備が進められた。しかし、民戦一二回中央委員会と四全大会では、総合大学建設は客観情勢と主観的な力量から時期尚早という結論になり、その案を撤回し、その代わりに将来的には大学建設を展望しつつ、五千万円の基金で、師範学校を建設することが決定された。
二、開校以降の沿革
民戦一一回中央委員会後、総合大学問題が論議される過程においても、一九五四年新学年度の教員不足に対する解決策は火急な課題であった。
一九五三年九月から学生募集に着手し、一〇月二二日、全国二二県から集まってきた五一名の入学生で、当時の東京都立第六朝鮮人小学校で、開校入学式を挙行したが、その翌日から学校使用問題で東京都教育庁と対立し、二六日、われわれの教育を守るとの観点から校舎を東京都芝新橋の産別会館に移し、学生たちの宿舎は、そのまま都内の品川、大田、世田谷の三か所に分宿、授業を継続した。その後、同胞の誠意で、千葉県船橋市の旧朝鮮人小学校(一九四九年一〇月の閉鎖後、空き家になっていた)を借り、約一三〇万円をかけて教室を改修し、一五坪の食堂を新築して、同年一二月八日に移転し、一八日に盛大な移転歓迎式を催した。
船橋移転後、学生たちは集団生活を通じて、精神、学力共に急速に高まり、校外地域活動も活発に繰り広げるようになった。一九五四年三月三〇日には六か月間の所定の課程を終了した四四名の第一期卒業生が全国各地の教育戦線に派遣された。
第一期終了前から期成委員会では、新学年度を控え、二階建ての寄宿舎を約五千万円の予算で着工する一方、新たな学制による学生募集運動を繰り広げ、第二期は予定より約半月遅い五月一七日にスタートした。
入学当時の学生数は、全国二七県から八九名、学力によって、専門部に二八名、普通部本科に四〇名、予科に二一名で編成、授業期間を一年とし、九月の二学期の開始と同時に、同胞の要望により、編入生を募集し、一三名を迎える一方、専門部を文科と理科に分け、専攻過程を学べるようにした。
しかし、入学生一〇二名の中で、経済事情の悪化、疾病、その他の理由で一三名が抜け、在校生たちも施設の不備と教具不足などにより、最小限の実験すらできないまま、三月一〇日、全国各地の教育戦線に赴く七〇余名を含む八七名を卒業させた。
二期生を送り出すと同時に、三期生を募集しながら、先の民戦五全大会では、一九五五年度には、一、学制で普通科を廃止し、専門部に文科、理科、芸術科を置き、別に予科を設けること。二、学校名を従来の「中央朝鮮師範学校」を「朝鮮師範専門学校」に改称すること、三、授業年限を各科一か年にすること、四、教科体制の確立、五、教職員陣営の強化、六、学制増加に伴う不足施設の拡充、教材、教具、備品などの準備、七、その他―が決定され、四月二〇日に第三期入学生九八名を迎えた。
同時に教職員陣営も強化され、李珍珪校長が総連結成によって、教育部長に転出したのと関連し、李東準新任校長を迎え、学校期成委員の責任者の尹徳昆氏が総連中央の議長[当時、議長団は六人]への転任と関連し、新たに姜昌調氏が就任した。