ハッキョ(学校)を支える実のある地域活動を
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ライバルは尼中、神戸朝高
高二から芸大目指して
金李さんは初級部からウリハッキョですか?
李そうです。城北初級から中大阪中級、大阪高級学校です。城北初級は今も幼稚園児と児童合わせて百人ほどいます。地域が強いんでしょうね。府内でも急激に減った学校と維持している学校の差が激しいのです。東大阪初級も一四〇~一五〇人ほどいます。
金音楽はいつから始めたんですか?
李中学の頃です。中大阪初中級学校(当時)に吹奏楽部があったんです。中級部に上がってみんなどのクラブに入るか楽しみにしているんですが、吹奏楽部に入ったら、暑い中運動会の練習をしなくてもいいらしい、サボれるらしいと聞いたんです。元来怠け者なんで、「それはいいな」ということで同級生何人かと入ったんです。顧問がリュ・ジェジョンという先生で、その先生の勧めでクラリネットを始めました。本人はやはりもう少し目立つトランペットとかトロンボーンをやりたかったんですが、まあクラリネットの方が楽かなという思いもあって。中学二年の時に近畿の芸術競演大会で、尼崎のハッキョと競った末に一位になったことで楽しくなって、もっと上手になりたいと楽器を買いました。中三になって主将になったんです。部員も増えて当時は三〇人ほどいました。当時のライバルが尼崎初中級学校で、競い合うことが刺激になりました。運動会で演奏するウリナラのマーチが好きでした。楽しかったです。顧問のリュ・ジェジョン先生は当時の中級部の先生としては珍しく作曲編曲ができたので、独自のアレンジでウリナラの曲を演奏していました。練習の中で、点でしかなかった音がつながって曲になっていくという楽しみを感じていました。
金やはり一番楽しいのは合奏ですか?いろんな音と音が重なって。
李合奏です。むつかしいですけどね。わがままなんで誰かに合わすというのがすごく嫌なんですけど、でも合奏というのはみんなが寄り添うように合わせていかないと「俺に合わせろ」ではだめなんですよね。もちろん誰か中心はいるんですけどね。
金中三の時の芸術競演はどうだったんですか?
李一位になりました。ところが変則的に、その年の中央芸術競演が高校に上がった年の五月に行われたんです。ということで、高一の五月に中大阪初中級学校の一員として出たんです。その時は中央大会でも一位になりました。勝ったらやっぱり楽しいですよね。
金高級部に入っても続けたんですよね。迷いはなかったんですか?
李迷いましたよ。初日は逃げたと思います。初級学校から一緒だった友達とボクシング部に行こうかって話していたんです。二日目に先輩につかまってしまってそのまま吹奏楽部に入ることになったんですが。中大阪中級部のリュ・ジェジョン先生の指導の下でやる吹奏楽部と、指導する先生がいなくて雑然とした中でやる高級部の吹奏楽部の内容が全く違いました。音楽を指導してくれる先生がいなかったんですね。先輩たちもほとんどが高校に入って先輩たちに無理やり吹奏楽部に入れられて、そのまま三年生になったという感じでした。だからレベルは中大阪中級部の方が高かったと思います。人数は多くて五十人くらいいましたが。練習は厳しかったです、朝練とか居残り練習とか。一年生の頃は奴隷みたいで、強制的にやっていた感じでした。でも二年、三年になると面白くなってきて、特に三年の頃は神戸朝高というライバルに負けまいと燃えていました。中大阪初中級学校の頃は尼崎に勝っていたんですが、高級部になって差がついてしまいました。当時は神戸朝高がダントツで強かったです。
芸術競演大会では、吹奏楽部といえども演奏を待つ間はほかの学校の吹奏楽部と喧嘩ばかりしていました。そんな時代でした。音楽では神戸に負けて悔しかったですし、相手の演奏を聴いて「ああ負けたな」って実感しました。うまかったです。こんな不良が、こんな悪そうなやつらが、なんでこんないい音楽できるんだろうって思いました。自分たちもそうだったんですけどね。
金音大に行こうと思ったのは?
李高二の時でした。音楽と楽器が好きだったということもありますし、もう一つは家庭があまり裕福ではなかったので、自分が有名になって親を助けたいという気持ちでした。ハングリー精神ですかね。音楽で身を立てようと、プロになろうと思いました。受験用にクラリネットの先生についたり、芸大ですからピアノの先生にもついて習いました。
金親は反対しませんでしたか?
李反対しました、はじめ。アボジが封建的な人なので、男が何が音楽だと。家が土木関係の仕事をしていたので、どうせ大学に行くなら、そっちの関係に進めということで。なので上手になって親を説得しようと思って一生懸命頑張りました。始めは親も半信半疑だったと思います。音楽を経験した人たちではないので。習いに通ううちに、多分芸大は合格するはずということだったので、それで親を説得できました。
金専門の先生について変わりましたか?
李変わりました。根本的に基本からやり直しました。やっぱり我流でやっていた音楽とは違いました。できる音楽の幅が広がれば自分が表現できる世界も広がりますから、もっともっと音楽が好きになりましたし。先生ははじめ、びっくりしたと思います。当時の朝高生の格好でレッスンに通っていましたから。ピアノの先生にもクラリネットの先生にもあまり好かれていなかったと思います。「ええ、こんな子が音楽するの」というふうにみられていましたから。それでも一生懸命しているうちにレベルも上がって、そのうちに先生の方も仕込もうという感じになりました。ピアノもできるようになって、クラリネットの方は自信をもってやっていました。先生も合格できるレベルだから、ぜひ受験しなさいと。
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