民族の歴史や文化、知識として継承できても 血と肉に変えて吸収はできない
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インタビューを終えて
金淑子・「記録する会」
一二月[二〇一五年]中旬、朝鮮大学校の美術科のアトリエで話を聞いた。一一月に行われた合同展示会「武蔵美×朝鮮大 突然、目の前がひらけて」の初日に、同展に出品した朝大研究院の二人へのインタビューをお願いしたのだが、インタビュー当日に李晶玉さんが体調を壊し、鄭梨愛さんへの単独インタビューとなった。
合同展では、朝鮮大学校と武蔵野美術大学の間の塀に橋が架けられた。初めての試みだ。同時に朝鮮大に武蔵美の学生の作品が、武蔵美に朝鮮大の学生の作品が展示された。五年間、対話や合同展など美術を通じた交流を積み重ねた結実だった。インタビューに出てくる小冊子はこの時配られたもので、各々の作品の解説とともに、二〇一四年十一月から二〇一五年六月までの交流のタイムラインとともにその過程で交わされた対話の抜粋が収録されていた。
両校が隣り合わせで過ごして六〇年近い歳月が流れる。三〇数年前、朝鮮大学校の合唱部だった私も武蔵野美術大学の学園祭に呼ばれて行ったことがある。友人と二人でチマ・チョゴリを着て二重唱を披露したと思う。当時、外出もままならなかった朝鮮大生は、武蔵美生の奇抜さや破天荒さばかりに目を奪われていたようだった。日本社会の中で在日朝鮮人社会を取り囲む壁は、今よりずっと高かったように思う。交流の多くは社交辞令の枠を超えることなく、多分にイデオロギー的で、腹を割って対話するということはまだ考えられなかった。
その後、冷戦の崩壊や拉致問題、北朝鮮バッシングなど激動の歳月を経験しながら、「割り切れない複雑さごとそれぞれの塀越しの対話を提示」する段階まで歩んでこられたのは、互いを少しでも理解したいという双方の思いがあったからだ。
「分かり合えるのは不可能と思っていた」と鄭梨愛さんはいう。「今現在も加害と被害の現状が続く中で、同じテーブルについて自分は何を発言すればいいかわからないのです、『被害の側』として」と。
これは日本社会で、日本人と一緒に生活し、働いている在日朝鮮人誰もが日々感じている戸惑いでもある。ご近所や会社の同僚の日本人とは、ニュースで流れる従軍「慰安婦」問題や、朝鮮の核問題、朝鮮学校が高校無償化制度から排除されている問題さえも、できれば触れずに過ごしたいというのが正直なところだ。
けれど私たちは、やはり訴え続けるしかない。むやみに叫ぶばかりではなく、どうすれば相手に伝わるかをいつも考えながら。加害者ではなく被害者が差別解消のために努力しなくてはならないというのは確かに受け入れがたいが、私たちがどれほどの痛みを感じているか、訴えない限り相手に伝わらないのだからしようがない。沈黙が流れてもいい、感情を抑えきれず罵倒することもあるかもしれない。それでもテーブルに着くしかない。対話しか解決の方法はないのだから。
今回両校の塀にかけられた橋の上から見えたものを彼らの感性は今後、どのように消化していくのだろうか?
在日朝鮮人とは何者なのか、日本社会でいかに生きていけばよいのかと苦悩する若い彼女が、やけにまぶしかった。35
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