民族の歴史や文化、知識として継承できても 血と肉に変えて吸収はできない
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世代交代の転機、変化を起こさなくてはいけない転機
金ホ・ナムギ先生の「아이들아 이것이 우리학교다(子どもたちこれがウリハッキョだ)」や東日本大震災の時の「언제 어디서나 (いつどこでも)」、毎週金曜行動で文科省の前で歌う歌、そして在日朝鮮人画家が描いた絵など、圧倒的な日本文化の中で在日朝鮮人のオリジナリティをアピールする作品がたくさん生まれました。その中心に朝鮮学校があったのではないかと思うのですが。
鄭美術科で言えばそうだと思います。在日朝鮮人が繰り広げてきたいろんな美術運動だったり、作ってきた作品だったり、朝鮮大学校がその渦の中心にあったと思います。そしてその中に自分がいるとも思います。
金在日朝鮮人はこれまで朝鮮半島を見ながら多くの作品を生み出してきました。これは朝鮮半島に住んでいる人とは明らかに違う視線です。そういう在日朝鮮人の文化は今後どうなると思いますか?
鄭社会の中で求められている祖国像もあるし、また世代ごとに祖国像は違います。私たちの世代が描く祖国像も、各々全然違うかもしれないし。そういう在日朝鮮人文化の中での細かい、何というのでしょうか、像は、今後ものすごく追及していかないと危ないかなと、それは多分時がたてばたつほど危ないかなと。私よりも私の後輩たちの方がもっとつらくなります、きっと。
金でもこう捉えなくてはいけないという決まったものはないんじゃないでしょうか?
鄭ですけれど、渦の中にいるとやはり感じるものはあります。この展覧会、合同展をやっていて、袴田先生や李先生との世代の違い、先生と学生との溝もありますし、大学間で長い間何もなかったというのも含めて、何かの転機だと自分は思っているんですが。世代交代の転機、あるいは何か変化を起こさなくてはいけない転機といってもいいくらい私は大きな反響を感じたので。でもそうやって何か新しいものを作っていくのに、これまで培ってきたもの、例えば袴田先生、李先生がやきもきしていたその時代を無視してはいけないと思いますし、そこから受け継いでいかなくてはいけないものは絶対ありますし、それを無視して自分たちが新しいものを切り開いていくというのは間違っていると思うので。そこの中から何を選んで大事に取っておかないといけないと思うかは、すごくむつかしい問題。上の方たちが望んでいる社会像みたいなのもありますし、祖国像もありますし、でもその溝は埋まらないものなんだなって、最近すごく感じているんですよね。私と後輩たちとの溝も埋まらないだろうし、変化も全然違うものをとらえていくかもしれないし、それはもう考えてもしょうがないことですけれども。そういう今後ずっと抱えていかなくてはならないやりづらさを、痛感しました、今回。
「加害者と被害者」「マジョリティとマイノリティ」
金合同展で配られた小冊子を読んでいると、本当によく対話しているな、対話って本当に大切だなと思ったんですが、どうですか?
鄭長かったですね。そうですね、大切ですけれども、分かり合えるのは不可能だと思っていたので、この対話が何かカギになるというような希望はなかった気がします。
金「過剰な被害者意識」という言葉が引っ掛かったんですが。
鄭私の言葉ですね。それがあったのは事実だったので。でもその過剰な被害者意識が私は、あっていいものだとすごく肯定していたんですけど、対話を通じて疑問を抱くようになりました。
金過剰な被害者意識って何なのかちょっとわからなかったんですが。何が過剰で、どこまでだったらいいのかというのが。
鄭そこらへんはすごくあいまいなんですが、対話の中ですごく踏み込んだ話になって、例えばあっちが「統一したらどうするの?」とか、「あっちに帰りたいと思うの?」とか。「日本で寂しい思いをしているんだったら、なんで移住しようと考えないの」とか。「あっちがもともとの国でしょ」みたいな言い方をしたときに、本人は悪気があって言っているわけではないんです、絶対に。でも攻めないと気がすまなくなってくるといいますか。頭の中では「罪の意識にさいなまれてほしかった」という言葉がずっとぐるぐる回っていました。そういう言葉を発した相手は多分そんなの一つも感じていないんですけれども。私が直接何かをこうむったわけではないんですけれども、こうむったかのように発言しないと気がすまなくなってくると言いますか。そんな感じです。
金対立しちゃったんですね。
鄭そうですね。それが「加害者・被害者」だったり、「マジョリティ・マイノリティ」だったり。
金小冊子を読みながらシステムの怖さを改めて感じました。システムに組み込まれてしまうといろんなことを意識しなくなってしまう。自分の立ち位置も、自分がどんな役割をしているのかも客観視できなくなってしまう。在日朝鮮人側にそういう部分がないのかと言われるともちろんそういう部分は無きにしも非ずなんだけど、やはり圧倒しているのはマジョリティのシステムなんですよね。高校無償化の問題も差別されている当事者が声を上げないとマジョリティは誰も気づかない。でも文科省の前でのデモを見ながら「過剰な被害者意識」という人はいるんだろうなと。
鄭そうですね。実際に自分が被ったわけではない歴史とか事実を自分の意識として持ち込むかは、対話の中でだいぶ悩みました。
金「被害」と「加害」が過去の問題ならいいけど、今も続いているから被害者意識が生じてしまうんですよね。「加害者」が、過ちを認めて改善しようするなら、私たちも「被害者」意識を改めていくべきだと思うのですが。
鄭被害者意識をもって同じテーブルに着くということは、どういうことなんだろうとずっと考えているんですが。今現在も加害と被害の現状が続く中で、同じテーブルについて自分は何を発言すればいいかわからないのです、「被害の側」として。それをもし今回の合同会のメンバーの人たちに言ったら、形はだいぶ変わってきますね。この展覧会の形も自分がやっていることも。同じテーブルについた時の理想像が自分にはよくわからないので、そういう問いをされたときに言葉に詰まってしまいます。
金でも互いを理解するためには対話しか方法がないですよね。対話で理解できなければ不可能ということになってしまう。でも人間には理詰めでは理解できないけれども、理解したいという感情というか思いやりはあると思うのですが。
鄭それが助けになるかもしれないです。思いやりをメンバーから感じたことはすごくいっぱいありましたし、気持ちがあったかくなることもいっぱいありました。けどやはりどこかで偽善っぽく感じることがあったり、そういうことが混とんとしていたような気がするんです、準備期間は。でも思いやりを否定はしないです。肯定もできないと言いますか。
金お互い理解するのはむつかしい?
鄭むつかしかったですね、はい。ただ合同展を見に来てくださった方とかに自分の今後の姿勢を表明するのに、ただそういうことが不可能だったから投げ捨てるということではなくて、それは続けていかないとだめだと思います。
金きれいに収まることばかりでは気持ち悪いじゃないですか。ギザギザが残った方が自然で、本気に取り組んだ証なのかもしれない。卒業ですか?
鄭一応節目ではあるんですけど、修了の。でもまだいるんじゃないですかね。来年度もまだいます、はい。
金やりたいことはないんですか?
鄭思い浮かばないというのは、明確に強いものはないようです。とりあえず目の前にある展示会にしがみついているというか。そこから何か大作が生まれればそれもよし。生まれなくてもそれはそれでよしみたいな。
今までは祖父という対象がいたので、その対象から連想されるイメージだとか、いろんな図が浮かんできてそれをスケッチで起こして、ためて、いろんなアイデアが生まれたときに引っ張ってきたり、また 引き出しにしまったりという作業をしてきました。でもこれまでの対象が無くなったので、今後制作のスタイルがどうなっていくのかわからないというところです。
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