民族の歴史や文化、知識として継承できても 血と肉に変えて吸収はできない
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自分は何者なのか?
金自分は何者なのでしょう?
鄭それを本とか映画とかいろんなものから言葉を借りて言おうとしたんだけど、なかなかしっくりこなくて、何か自分に関係あるものがあればそれにすがっていたんですけど。例えば映画で「パッチギ」と「GO」を見比べてみたりして。「パッチギ」で登場人物は、自分のことを「在日朝鮮人」という言葉で表現していますが、「GO」は結局「在日韓国人」という結論を出すんですよね。自分の立場を代弁してくれている本だとか、そういう映画だとかあるんですけど、逆に混乱した感じがして、今は対話をして答えが出たというわけではないですね。
金鄭さんは自分をどう名乗りますか?
鄭実際そのころのインタビューではずっと「在日朝鮮人」と言えなくて、「在日」と言っていたんです。それがどんどんいろんな方のインタビューを受けるにつれて、「在日朝鮮人」というようになりました。やはり武蔵美のメンバーの方たちと話していても、「在日朝鮮人」と言いづらかったのはちょっとあって、ずっと「在日」という言葉を使っていて、でも今はちょっというのに躊躇するのはありますが、「在日朝鮮人」というのがいいかなと。
金「在日」と「在日朝鮮人」の違いは?
鄭「在日」って言ったら日本にいる外国人だから、外国人の部分が何人なのかあまり示されない。
金なぜそこをごまかそうとするんだろう?
鄭それは幼いころの嫌な思い出があると思う。美容室に行くと美容師さんに「どこの学校?」って聞かれるんですよね。その時に「朝鮮学校」というとすごくあからさまに態度を変えた美容師さんがいて。中学生の時だったので、それが結構トラウマになっているかもしれないです。「朝鮮学校」と言った瞬間から一言もしゃべらなかったんです。会計の時も一言も話さなくて。普通だったら接客業なので「ありがとうございます」とかいうのに一言も話さないであからさまな態度をとったので。武蔵美の方たちと初めて話すときとか、踏み込んだ会話をするときも「在日朝鮮人」と言いにくかったのはありました。
金「朝鮮」という言葉で自分を全否定されてしまうかもしれないという危機感のようなものは今もありますか?
鄭完全に拭えたとは言えないですけれども、「在日朝鮮人」という言葉の「朝鮮」が民族を指しているのであれば、間違いないものですし。国は南北に分かれていますけど、もともと民族は一つだから「在日朝鮮人」がしっくりくるかなと思いました。朝鮮という言葉が一番説明しやすいですし。
金そのたびにためらいを感じるのは事実で。「在日朝鮮人」は現在も社会的に厳しい状況にありますよね。
鄭三世四世になってくると、正直一世の祖父を通して自分がどうそれを引き継ぐのかということを考えたりするんですけど、どうしてもそこの差は、溝は、埋められないというか。その溝をなくしてしまうのではなくて、自覚して、それをちゃんと認識しないとなと思いました。朝鮮大の中で、在日同胞の社会の中でよくいわれる「民族」だとか「祖国」だとかいう言葉を安易に使えなくなったというか。民族意識というのは三世四世になると、希薄になってくるというのは、対話の中でつくづく感じて。たわいもない話をしていると分からなくなってくるんですよ。その境目を常に意識している人は多分いないと思うんですけど。その違いを意識することが必要だとは思うんですよね。社会が今の若者にこういうことを望んでいるとか、引き継いでほしいとか。それがたまに重荷になることはあります。重荷に感じたり、辛くなったりすることをないがしろにしちゃいけないなと思う。だからと言って取捨選択する権利が全部自分にあるというわけではないけれども、そういう世代間の溝で生まれるしがらみみたいなものを含めて無視しちゃいけないなと思う。
金民族って何だろう?
鄭いやあ、わからないです。
金例えば在米コリアンもいて、中国に住む朝鮮族と呼ばれる人もいる。それぞれ住む地域や国によって課題は違うと思う。在日朝鮮人の今の課題は何だろう?
鄭それでなくても今、いろんなことに覆われてわかりづらくなってきているし、使っている言葉も日本語だし、食べているものも日本の食べ物で、文化も吸収している身として、事実としてある民族の歴史だとか文化だとか風習なんかを、知識としては受け止められる自信はあるんですけれども、継承する自信もあるんですけれども、それを血と肉に変えて吸収できるかというと、自分はできないと思います。でも朝鮮大学校で研究院に残って勉強している私には、それが要求されているような気がするんですよね。
金知識っていうのは、おじいさんが笑い飛ばした「正義」のようなものですか?
鄭いや、ちょっと違うかもしれないですけど、そんな離れたものでもないと思う。それをあたかもほんとに自分が得てきたものかのようにしゃべってはいけないと思う。だって生まれたときから日本で生きてきて、逆にそういう自分の民族の何かを探す方が生活の中でむつかしいかもしれないのに、本当の自分の言葉は朝鮮語だとか、そういうことを軽々しく言えなくなったというか。でもそういうふうに言うのを望んでいると思うんですよね、社会は、と私は感じるんですよね。でもそれは私、鄭梨愛が感じている要求なので、自分が身勝手に想像しているものかもしれないし、私が身勝手にただそう思っているだけかもしれないです。
金要求というのは、目指すビジョンに従って出るもので、どういう将来を描いているからそういう要求が出てくると思いますか?
鄭合同展を準備する過程の対話の中でも壁に対する言及がいろいろとありましたが、自分たちの立場を区切るものが必要だと思うんですよね、絶対に。でも区切っていてもせき止められないものってあると思うんです。時間の流れだったり、世代間の溝だったり。そういうとめどなく変化して行っているものを、無視してと言ったら強い言い方になるかもしれませんが、そういう変化がない中でこれからも壁をもって生きていける社会だと思っているのかなとちょっと思っています。でも変化は止められないし、私が思っている変化以上のものを私より下の子たちは、感じているかもしれないですし。個人の認識のずれやいろんな摩擦があると思う。例えば世代のずれだったり、社会のずれだったりとか。そのずれを常に感知していかないと、いい社会のビジョンって作れないんじゃないかなって。
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