民族の歴史や文化、知識として継承できても 血と肉に変えて吸収はできない
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祖父を描き続けながら
金じゃあ、そのころから少し面白くなってきた?
鄭そうですね。やっと基礎から解放されて、祖父を描き始めたのもちょうどそのころです。今の形が始まったのがそのころだと思います。
金その流れがこの間の展示会で発表された「ある所のある時におけるある一人の話と語り聞かせ―。」ですか?
鄭そうですね。
金祖父という存在が自分の人生の大きなテーマだったんですか?
鄭人生のテーマというものではなく、自分の作品制作の対象でしたね。祖父を描いているけど、祖父の先にあるものを追っていたような気もします。ただその祖父の先にあったものが一体何なのかは今もよくわかりません。
金祖父を描きながら、変化はありましたか?第一段階、第二段階というような。
鄭二年生に書き始めた頃は、五、六年ぶりにあったときの衝撃でそのまま描いたようなものでした。見たまま写実的に。
金衝撃というのは?
鄭久しぶりに会ったので、変わっていました、大部。あったきっかけが祖母の葬式だったので。祖母の介護を祖父がずっとしていて。横浜に住んでいたんですが、私一度もお見舞いにも行かなくて、話は聞いていたんですけど。改めて葬式であって、いろいろ思うところがありまして。
金元気がなかった。
鄭元気もなかったですし、五、六年の老い方ではなかったです。ある対象を見て、描きたいと思ったのはその時が初めてでした。それまでは描く対象を探していたという感じだったんですが。ある対象を見て描きたいと思った衝撃をごまかさずにそのまま描こうかなと思って、見たままの祖父を描きました。
金打ちひしがれたような様子だったんでしょうか?
鄭その時はそういうことも整理せずに見たそのままを描きました。その時の様子をどう表現すればいいかわからないんですけど、その風景が頭の中にこびりついているのは今も変わらないですけど。描きたいという衝撃に自分自身も驚いていたので。
金二年のいつ頃ですか?
鄭葬式は五月だったんですが、描き始めたのは秋くらいですかね。その初めての作品を発表した展示に武蔵美の方が来てくれました。だから武蔵美の方は灰原さんも土屋さんも最初の絵を知っているので、その都度の私を見てくれた方たちです。
金次の段階は?
鄭次の段階は、写実的な描写をしてもなんか姿を追っているだけで、姿を追って描いていると作業になっちゃうんです。どれくらい現実の姿に忠実に写実的に描くかという作業的な過程になってしまって、自分が一体何を描いているんだろうと思ったりもして。そうじゃなくて、祖父の外面的な姿を追っているんじゃなくて、何か別のもの、祖父の後ろにある何かを追っているのかもしれないとか、いろいろと自分なりに意味とか価値を付与しようとしたんです。その意味とか価値は、過程を通じてどんどん変わってきているんですが。始めは時の経過によって表面化される老いだとか、しわから感じられる人の深みだとか、生の深みだとか、言葉はコロコロ変わってきているんですが、
金それはいつ頃?
鄭研究院に入ったくらいころからだと思います。
金描き出して半年くらいたったころということですね。祖父に対する気持ちも変わってきたのでしょうか?
鄭変わりましたね。コロコロ変わっています。外面から見えてくる生の深みだとかを考えたかと思うと、そのすぐ後には祖父の過去に焦点を当てたり、また写実的な絵に戻ったりだとか。本当コロコロ変わっていて。
金おじいさんは植民地時代に日本にいらしたんですか?
鄭朝鮮戦争の時に渡って来ました。
金昔の話はよくなさいました?
鄭そうですね、何回も繰り返し。自分が生まれたときから祖母が亡くなるときまでの話を繰り返し。会うたびにその話を聞いて、長かったら四~五時間とか。
金その中で印象に残っているのは?
鄭もうだいぶ前の話なので。元気だったときはそんな話をしていたんですが、三年前くらいから体調を崩して話さなくなったんで、そのあとは母から話を聞いていました。記憶の中で脚色されているかもしれませんが。思い出すのは、話を聞いていたのはいつも夕食のときだったので、ご飯を食べながら、日本にわたってきて自分でお金ためて大学入ったときに、本当にお金がなくて、どうしてもコッペパンが食べたかったという話を、食事をしながら聞いたせいか一番よく覚えています。ほかにもいろいろあるんですけど、話は。
金一緒に暮らしたことは?
鄭ないです。祖母の葬式で会って、それ以降私が月に一回くらい横浜の祖父の家に泊まりに行ったりして。五年くらい祖父とそうして接点を持つようになって。別に話しを聞くためではないんですが、接点を持たなくてはと思って。その過程で次第に打ち解けていきました。
金じゃあ、心の中のおじいさんの位置も変わったんですね。意外な面とかはなかったですか?
鄭いまだに自分が接してきた祖父の人間像みたいなものがつかめていなくて。だからどんな方だったかと聞かれても言葉が出てこない。むつかしいです。私の勘違いかもしれませんが、人って老いたら、その人がつかみづらくなるというか、単純じゃなくなるというか。私は今二十代なのですが同年代もしくは日ごろかかわっている人たち、せいぜい五〇~六〇代の人たちと違って、八〇代くらいになるとちょっと距離がつかみづらいというか、それを老いという言葉で片づけていいのかどうかわからないんですが、祖父と接するときは距離をつかめなかったり、どういう性格なのかもちょっとわかりにくかったです。急に人相が変わることもあったし、急に性格が変わることもあったし、孫に向けて言っている言葉なのかなというような理性と離れた言葉を発したりもしていたので。むつかしいですね。
金制作のモチーフとしては想像力が掻き立てられるのでは?
鄭作品制作の対象としてやりやすかったのは確かにあります。遠慮しないし、カメラを向けても意識しないので。私が祖父を描いていることは知っていたのですが、見たいとも言ってこなかったですし、見に来ようともしなかったので、自分が思うようにできたところはあります。
金おじいさんを描き続けて今思うことは?
鄭祖父が今年の七月の末に亡くなったんです。それまでは今回の合同展の出品作として全く別のものを考えていたんですが、亡くなる前と後では自分の心境も変わりますし、ゼロから全部やり直したんです。祖父が亡くなった後、自分が今まで積み重ねてきた過程に対して、一体それが何だったのかを表明する作品を合同展に出したいと思ったんです。それが今回の映像作品です。この映像作品では個人としての祖父像ではなくて、公の意識も含めた祖父像、それはただある一人の人間ではなくて、ある人間が生きてきた時代も含めて歴史も含めて社会も含めての祖父像、金天玉という人を描こうという表明ですね。亡くなる前までは孫と祖父だったんですが。
金合同展初日の美術批評家・椹木野衣さんのゲストトークで「私の『正義』を祖父は笑い飛ばした」というフレーズがありましたが、そんなイメージとも重なるのでしょうか?
鄭そうですね。祖父の人格の中から、祖父が発した言葉から、祖父がどういう社会認識を持っていたのかとか、自分が歩んできた歴史をどう思っていたのかとか考えたときにそういう言葉が出てきたので。それまで自分は祖父に何かを問うたことがなかったんですよね。自分の生き方をどう思うだとか、故郷をどう思っているのか、帰りたいのかという問いすら出てこなかったんです。亡くなった後になんで聞けなかったんだろうと思ったり。きっとそれは祖父が亡くなった後に祖父への意識が変わったからだと思います。
金あの映像は、途中の部分はオモニが撮られたんですよね?
鄭祖父がまだ歩けた頃に、祖父が両親、私の曽祖父母になりますが、その墓参りをするために韓国に行ったんですが、私は朝鮮籍なので行けなくて、同行した叔父と母に写真とビデオカメラを託しました。
金帰ってきたとき見た映像は衝撃的じゃなかったですか?
鄭絵を描く合間に何度も見ていたんですが、亡くなった後ほどの衝撃を当時は感じていませんでした。当時は流れる映像をただ見ていたのかもしれません。もちろん墓の前で泣くシーンなんかは何度も再生を繰り返したりしましたが、絵が変わるほどの衝撃はなかったと思います。ただ貴重な資料としてもっていました。
金亡くなられた後見たときは?
鄭こんな映像だったっけと思いました。細部まで見てなかったし、全然違う映像に見えました。母や祖父の弟とのたわいもない会話なんですけど、生きていた時の歴史とか時代が反映されているんですよね、言葉の端々に。それが聞き取れたような気がしました。それをただの言葉としてとらえるんじゃなくて、余韻みたいなものを感じました。例えば祖父は決して「イルボン ノム(日本の奴)」とは言わないんですよね。ずっと「イルボン サラム(日本の人)」と言っていたんです。でも祖父の弟は「イルボン ノム」と言っていたんです。そういう言葉一つとってもその人の持っている意識が見えてきます。どっちがいい悪いではなくて。
金どうしてそう思ったと?
鄭自分が人として生きていくうえで、背負っていかなくてはいけない立場というものがあるじゃないですか。それを嫌でも突きつけられていて、合同展の準備中に。そしたらルーツのようなことも考えますし、そしたら祖父という存在にぶち当たりますし。自分の中で自分をどう見るかということに、自分が一体何者なのかということを今までにないくらい考えたからだと思います。
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