四日市ハッキョの歩みを辿る:沿革史整理作業記⑭
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「誓約書」の提出めぐり県と激しい攻防
申正春・初級部49期・中級部二〇〇三年卒の46期生
四日市ハッキョの法的認可獲得の続きを述べたい。
知事との面会が実現して約一年間、認可獲得のための運動が継続される。同胞たちの運動とともに日本人も四日市ハッキョの認可獲得のための活動を行った。三重県から入手した四日市ハッキョ認可関係の史資料の中には一〇二枚の署名用紙があった。三重県教職員組合(三教組)が集めた署名であった。全部で一六四九名にのぼる人々による四日市ハッキョの法的認可を訴える署名であった。
また、一九六六年四月には県内の労働組合、民主団体、学者、文化人による「在日朝鮮人の民族教育を守る三重県協議会」が結成され要請活動を行った。
県下各市町議会への働きかけも行われたようだ。上野市議会から認可を求める要望書や鈴鹿市から県への照会文書が見つかった。
県は一九六六年四月二二日に現地調査を行った。そして、私立学校審議会への諮問が行われ、結果「認可を可とする」答申がなされた。しかし、別途誓約書を提出させるという条件を付けた。
この誓約書の提出過程でハッキョと県の間で攻防があった事が資料からうかがい知れる。
史資料の中には手書きのために県が提示した誓約書の草案と思われる以下のような文書があった。
- 日本国の法令ならびに監督庁の諸指示を遵守します。
- 日本国の社会秩序に反し、又は利益を害する教育は行いません。
- 外国人学校制度が設けられたときは、改正法に従います。
- 助成金の要求はいたしません。
- 上記のことについて、違反した場合は、法人の解散ならびに学校廃止の処置をうけてもいたし方ありません。
実際に提出された誓約書は以下の通りである。
誓約書
私達は準学校法人三重朝鮮学園の設立及び四日市朝鮮初中級学校設置の認可をうけたうえは、日本国民との友好親善に寄与せんとする設置の趣意に則り、下記事項について誓約します。
記
- 日本国の法令ならびに監督庁たる知事の諸指示を遵守します。
- 日本国の社会秩序および利益を尊重した教育を行います。
- 自主的財源をもって学校運営を行います。
1966年11月16日
学校法人 三重朝鮮学園
理事長 金龍玉
三重県知事
田中 覚 殿
県側の草案から3と5が削られ、2と4(提出後は3)の文言が変わっている。
草案からは、当時上程の動きがあった外国人学校法案の成立を見越して、ハッキョを国と県が「管理」しようという思惑が垣間見える。結局のところ、ハッキョとしてはとうてい容認できない3と5を削り、助成金についても含みを持たせる文言で誓約書を提出し、一九六六年一一月一九日付で「学校法人 三重朝鮮学園」の設立と、各種学校としての四日市朝鮮初中級学校の設置の認可を受けた。
一九六六年はハッキョ創立二〇周年を迎える年でもあった。三教組から学校創立二〇周年と認可獲得を祝う祝旗が送られた(写真)。
三教組と四日市ハッキョの交流は歴史が長く、一九八九年からは青年部との交流(授業参観、交換授業、児童も含めての懇談など)が四半世紀以上継続して行われている。近隣の小中学校との交流も盛んでこれも四半世紀続いている。
また、ハッキョの近所に住む方からは、昔近くに公園がなく、ハッキョで遊ばせてもらっていたという話も聞いた。
昨今、朝鮮学校の「閉鎖性」について様々な言説が飛び交っているが、ハッキョは同胞たちの闘いと理解ある日本人たちの協力で法的認可を獲得し、昔も今も地域の中で開かれていた。最近は「開かされている」と感じる出来事も少なくないが、来年の七〇周年に向けてこの交流の歴史もしっかり残していきたい。(二〇一五年一〇月二五日)34
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