朝鮮学校の教育史④:運動会
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朝鮮学校と地域同胞社会を繋げる運動会
呉永鎬・東京学芸大学・一橋大学非常勤講師
日本社会に「見られている」という体験
遅ればせながら、「60万回のトライ」を観た。この映画は朴思柔・朴敦史両監督が大阪朝鮮高級学校ラグビー部を追いながら、朝鮮学校の日常の姿に迫ろうとしたドキュメンタリー映画である。
私は九月中旬に杉並で行われた上映会に参加した。上映前、会場の外でタバコを吸っていると、朝鮮学校の制服を着た初級部の子どもたちが、先生に連れられてぞろぞろとやってきた。おそらく杉並にある朝鮮学校の子どもたちだろう。会場に至る道で、何か悪いことでもしたのだろうか。引率の先生は入口の前で子どもたちを強い語調で叱っていた。「君たちは朝鮮学校の制服を着て、朝鮮語を話している。そんな君たちが電車の中や道端で騒いでいたら、日本の方々はどう思うか。それは君たち個人の問題に止まらない。朝鮮学校全体の印象が悪くなる。日本の方々、日本社会が私たちをどう見ているか。それをきちんと考えて行動しなさい。分かったなら会場でも静かにするように」。大体このような主旨であったと思う。
この先生の言葉とほぼ同様の主旨の語りが、「60万回のトライ」でも出てきた。ラグビー部の監督が部員たちにラグビーをする意義を説くシーンである。「日本社会が私たちをどう見ているか、大阪朝高をどう見ているか。その印象を、スポーツを通して変える。それが私たちの使命だ」。
映画を見る前に偶然出くわした東京の初級学校の子どもたちと、映画の中の大阪の高級学校の子どもたちは、共に、日本社会から「見られている」という世界を生きていた。そしてその日本社会から「見られている」という緊張を孕む視線を、教育の論理を介在させることによって、成長を促すものへと転換させていたのである。
朝鮮学校というマイノリティ的立場に位置付けられた人々が、一方的にマジョリティ側の視線を意識しなければならない極めて歪な状況の不当さは改めて確認するまでもないが、今、朝鮮学校の教育史を見ていく上で重要なのは、このようなカリキュラムや教科書とは距離を置きながらも、しかし朝鮮学校の人々(子どもは勿論、教員や保護者たちも含む)の育ちや学びに影響を与えたであろう様々な出来事を射程に含むことであろう。教科書や授業を見ていただけでは、朝鮮学校という育ち・学びの場の全体像に迫ることはできない。学校閉鎖に反対する闘いの中で人々は多くのことを学んだであろうし、各種学校認可取得のため、知事との直接交渉の場に参加した子どもも、多くのことを学んだであろう。また闘争・運動の中ばかりでなく、学校で行われる様々な行事を通じて、「地域同胞社会」を肌で感じる機会を得た子どももいるかもしれない。
今回からは、無数に広がる朝鮮学校を起点とした人間形成の契機の中から、「見られている」体験の最たるものの一つである学校行事の歴史を振り返ることを通して、一九五〇~六〇年代の朝鮮学校を覗いてみることにしたい。
学校行事とは
明治期から戦時期の学校行事を歴史的に検討した山本信良は、学校行事の特質を三点に整理している。すなわち第一に、学校行事は「毎日の学習生活と異なる非日常的な特別の学校生活」であり、学校生活の折り目や節目として、子どもたちに生活のリズムを認識させたり、子どもたちの生活に緊張や娯楽性を与える学校の祭典、子どもの祭としての性格を持つ。第二に、学校行事は、学習成果の発表の場であり、「教育的な意味をもって」行われるものである。その過程で学校行事は、国家が浸透させようとした西欧発の「新しい文化」と地域社会や家族の持つ土着の文化や慣習との遊離を埋める、言い換えれば「学校と社会のパイプの働き」を担った。第三に、学校行事は「子どもたちの自発性が発揮され、自分たちの能力を洗練し、表現する児童・生徒の活動」であり、子どもたちは「行事を通して独創性・自主性・協力性・自治力等」といった様々な能力を培っていった(山本信良『学校行事の成立と展開に関する研究』明正社 一九九九年刊、11~15頁、参照)。
学校行事には、運動会、学芸会、入学式、卒業式、遠足、修学旅行、また試験等が含まれる。西欧でつくられた近代学校の型を移植してつくられた日本の近代学校と、学校としての型がほぼ同様である朝鮮学校においても、具体的な中身や目的が異なるとは言え、こうした学校行事が行われていた。
今回は、今日の学校行事の花形たる運動会を見てみよう。吉見俊哉は、日本の学校の運動会が、国民としての身体の規律化という国家の意図をもって成立しながらも、それは学校に閉じた行事としてではなく、地域社会全体の祭礼・見世物としての性格を有しながら、地域社会に定着したと述べている(吉見俊哉他『運動会と近代日本』青弓社 一九九九年刊)。朝鮮学校の運動会はどのように始まり、今日のような恒例行事としての地位を得たのであろうか。
朝鮮学校における運動会のはじまり
各地の朝鮮学校で運動会が行われるようになったのは、いつからなのだろうか。管見の範囲ではあるが、一九四〇年代の運動会の記録は見つけられていない。運動会を行うには、それを行うだけの運動場のような広い空間が必要である。また各種競技を行うための道具が必要であるし、準備過程も含む時間的・精神的な余裕がなければならない。また、そもそも運動会を行うという学校文化が学校関係者に定着している必要もあろう。
それらのこととも関わっているのか、朝鮮学校において運動会が始まったのは一九五二年頃のことであり、また運動会を開催したのは、一九四九年の学校閉鎖措置後、公立学校へと移管された東京、神奈川、大阪、愛知といった地域の学校であった。
東京では一九五二年一〇月二二日に、東京連合大運動会が明治神宮外苑競技場にて行われている(在日朝鮮統一民主戦線三全大会準備委員会「各単位組織の活動報告と提案 教育活動報告と活動方針」(一九五二年一二月一八~一九日)。ここには東京都立朝鮮人学校一二校、および横浜朝鮮人小学校(おそらく横浜市立青木小学校沢渡分校と思われる)の児童生徒ら、およそ四〇〇〇名が出演している。また都内の日本の小中学校の児童生徒や日本の市民団体も招待され、一緒に競技を行っている(「躍動する青春の祭典――各地で豪華な大運動会」「十三連合大運動会に三万同胞が熱狂 東京」『解放新聞』一九五二年一一月五日付)。『解放新聞』によれば、朝鮮学校の保護者をはじめ、様々な地域から在日朝鮮人が訪れ、総勢三万人あまりの観客が訪れた、正に大運動会であったという。
運動会は、児童生徒らの行進による入場、「人民共和国宣言の歌(인민공화국선포의 노래)」の合唱、PTA全国連合会長の尹徳昆による民族教育を死守しようという主旨の開会の辞、来賓である来馬琢道(参議院議員)、妹尾義郎(国民平和推進会議事務局長)による祝辞が行われた後、各種の競技種目が行われた。特に全ての朝鮮学校の児童生徒らによる集団体操や民族舞踊が、在日朝鮮人、日本人に関わらず多くの絶賛を得たという(妹尾義郎「運動会を観る」『平和と教育』三号一九五二年刊、37~38頁)。
この運動会に招かれた日本の生徒の感想文によれば、「競技場にはいろいろ飾りたてられた朝鮮の旗が四、五本立てられ、観覧席には、美しい朝鮮服を身にまとった婦人で一ぱい」であったという(大竹秀子(旭ヶ丘中学校三年)「連合運動会にまねかれて」『平和と教育』三号 一九五二年刊、39頁)。日本の生徒たちは、「(競技に参加する際に在日朝鮮人から多くの拍手喝采をもらい:引用者註)こんなに歓迎して下さるとは夢にも思わなかった。あの愛情のこもった万雷の拍手は、胸の奥深くしみ通って忘れません」、「僕達が出る番になると、一人の朝鮮中学生がいろいろ僕達のことについて世話をしてくれた。日朝親善の為とはいえ、僕はその態度に感心した」などと感想を記している(服部稔(旭ヶ丘中学校三年)「朝鮮人学校運動会に招かれて」『平和と教育』三号 一九五二年刊、39頁)。
同年一〇月一九日には、横浜市にある神奈川朝鮮中学校(一九五一年開校)の運動場においても神奈川県下朝鮮学校の合同運動会が開かれ、二五〇〇余名の在日朝鮮人が訪れ、四〇〇〇余名の児童生徒たちが競技や踊り等を披露した。大阪の西今里中学校でも一〇月二一日に運動会が開かれ、三〇〇〇余名の在日朝鮮人が参加したとされている(「大阪でも開催」、「横浜も開催」『解放新聞』一九五二年一一月五日付)。
また一〇月二二日には、愛知県下朝鮮人学校連合大運動会が、名古屋瑞穂グランドで開かれた(「美しい朝日親善――六百日本児童が参加「名古屋」」『解放新聞』一九五二年一一月五日付)。朝鮮人学校のPTA連合と日本の三つの小学校が協賛で開催したこの運動会には、白水小学校をはじめとした日本人児童も六〇〇名程参加したという。この運動会には、朝鮮人児童生徒二〇〇〇余名と、在日朝鮮人が一万余名参加している。特に豊橋に在住する在日朝鮮人ら四〇〇余名は、交通費として六万余円を集め、大型車を購入し、片道二時間かけて運動会に参加したという。
民戦の「教育活動報告」によれば、他にも兵庫、広島においても県下朝鮮学校の連合運動会が盛大に開催されたという(前掲、「各単位組織の活動報告と提案 教育活動報告と活動方針」)。
こうして五〇年代初頭に、多くは学校合同という形で始まった運動会は、六〇年代初頭には、次第に全国各地の朝鮮学校で開催されるようになり、朝鮮学校に定着した学校行事となっていった。
以下にいくつかの学校の運動会の写真を紹介しよう。
運動会の機能
当時の運動会に関する新聞記事に示されている参加人数や移動距離を考えると(少々の誇張が入っているかもしれないとは言え)、在日朝鮮人たちが、在日朝鮮人たちが集まる運動会という場を、どれほど大事にしていたのかが窺い知れる。みなが集住しているわけではない在日朝鮮人にとって、生活空間と地域同胞社会とは、必ずしも一致するものではなかった。そうした在日朝鮮人の多くは、朝鮮学校という場で行われる運動会という行事を通して、地域同胞社会という掴みどころのない概念をリアリティのあるものとして感じ取ることができたのではないだろうか。そして地域同胞社会の祭・見世物としての運動会が繰り返し開催される中で、地域は学校によって活力を得て、学校は地域によって支えられるという相補関係を維持・強化するための一つの回路が確保された。
運動会はまた、地域同胞社会に向けて、朝鮮学校での民族教育の成果を披露する場でもあった。朝鮮語のアナウンスが流れる中、先生や友人らと朝鮮語で会話し、祖国の旗を誇らしげに掲げ、民族舞踊を踊る子どもたちの姿は、植民地支配によって奪われた民族性を取り戻し、立派な朝鮮人として育つことを願う保護者や地域在日朝鮮人に、朝鮮学校の必要性や正当性を感じさせたことだろう。同時に、教育成果を示す対象は同胞社会ばかりでなく、そこには日本人、日本社会も含まれていた。運動会は、朝鮮学校やその教育の一端を、マジョリティに向けて発信する場でもあったのだ。そのため、朝鮮学校の運動会には、日朝親善や国際交流といった役割が当初から見出されていた。
成果を披露する二つの質的に異なる社会の視線を意識しながら、運動会は組織されていった。その視線は期待や激励といった肯定的なものばかりでなく、時に奇異なものへ向けられる興味のまなざしである場合もあったことだろう。子どもたちはそうした中で、朝鮮学校に通う者としての自己を形成していったのである。34