在日朝鮮人コミュニティがあるから、子どもたちが安心して表現できる
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震災がきっかけ、アルン展が後押し
金先ほど、西神戸ハッキョの美術教員が震災での悲惨な体験を子どもたちに吐き出させようと提案したとおっしゃいましたが。
朴子どもたちの描く絵が、決して暗い絵ではないけど、希望に満ちたような絵でもない。あの時は並ばなくてはご飯が食べられなかった。ご飯を食べるために人が並ぶ姿を淡々と描く子どももいました。子どもがみなそうなのかわからないのですが、深刻にはならないのです。もちろん暗い絵もあったのですが、家が全壊したりして。
金先生も被災されたのですよね。
朴私の家も全壊しました。崖の上に家があって、たまたまあった楠木にひっかかかって家が倒れなかったんです。もしその木がなかったら、落ちていました。壁が崩れたところから、一歳の子どもを引き出して、パジャマのまま下に降りて、すぐにタクシーを拾って妻の実家のある長田の方に走ったら、長田は火の海でした。そのまま西神戸のハッキョに行きました。そこでしばらく避難生活をしました。三晩目には同胞たちから救援物資がどんどん届いて、食べるものには事欠きませんでした。周辺に住んでいる日本の人や東南アジアの人たちもきて、一緒に過ごしました。
金その時の気持ちはどうだったんですか?
朴言葉にすると嘘くさくなるけれど、そんなに不安で体が震えるというようなことはありませんでした。もちろん家族を守らなくてはいけないから、そんなことは言っていられないというのもあるし、どうにかなるだろう、なるしかないだろうという思いで、どうしようもなく不安だったというわけではありませんでした。いずれにしても現実は迫ってくるわけです。ご飯は食べなくてはいけない、家もない。しばらくして家の近くに止めていた車に少し残った荷物を詰め込んで、親戚の家を転々として、ジプシーのような生活が半年ほど続きました。
金気持ちが折れなかったですか?
朴折れそうになりますよ。三歳の長女はホコリでアトピーになって、子どもは幼いし大変でした。
金その間も学校で授業をしたと思いますが、生徒たちはどうでしたか?
朴当時は被害が甚大だった西神戸には行っていませんでした。中大阪と当時の東神戸朝鮮初中級学校(現神戸初中級学校)で教えていたのですが、西神戸に比べると被害は小さい地域でした。でもその年の学生美術展覧会には、震災の絵が並びました。中央審査会場では神戸のコーナーが異様な雰囲気でした。一方にうまい絵があって、もう一方に子どもたちの叫びのような絵があって。これをどうやって審査すればいいのか、全く物が違うのです。そこで初めてうまい絵よりもこの叫びのような絵を拾い上げていくべきじゃないかと、こういう風に表現することに対して教員たちが理解を深めていこう、これこそが生活から生まれたこどもたちのリアリティーじゃないかと。
生活画を描こうということは、金漢文先生のころから言われていました。一時は技術的なことにとらわれて、(朝鮮から送られてきた)鳥や動物の剥製品やツボばかり描いていた時期がありました。当時もまだそういう流れが残っていましたが、だんだん子どもたちの生活に重心が移っていきました。震災という大きな衝撃ではなくても、日常生活の中で子どもたちが感じているいろいろなことを表現するようになっていきました。ウリハッキョの子どもたちは、隣の友だちに対して強い関心を持っています。周りにいろいろな関心を持っているのです。そういうことが絵に表れてくるのです。
日本の学校では文科省のカリキュラムによって指導された同じような絵が並びます。そうなると、技術を基準に優越をつけるしかなくなります。だから上手い絵が評価されるようになります。学美は上手い絵でなく、表現力を見ます。ところが表現というのは、奥が深くて。色んな感性で網を張らなければ捉えられない、だから審査を全員でするようにしています。
金技術至上主義から表現の多様化への移り変わりは早かったですか?
朴もちろん急に変わることはありません。今も写生画もあるし、風景画もあります。その変化のきっかけは間違いなく震災だったし、もう一つそれに拍車をかけたのがアルン展でした。在日を中心に世界のコリアンアーティストが出品して開いた展覧会で、一九九九年、二〇〇二年、そして〇四年、〇五年に開催しました。三回目の時は参加者一六〇人余りの半分が在日でした。
金在日以外はどんな国から?
朴アメリカ、中国、ヨーロッパ各地ですね。
金どうして集めたんですか?
朴ネットワークを利用して。初めは少なかったのですが、どんどんつながっていって、二〇〇四年にはニューヨークでも開催しました。代表は東京在住の仲間で、私は副代表を務めました。
金刺激を受けましたか?
朴コンセプトが、世界から見た在日の美術でした。代表も副代表も二世で、そういうことにリアルに迫ってみたかったんですね。
九七年の中央美術展を最後に、九八年にアルン展というのを立ち上げて、翌九九年に第一回展を開催したわけです。二回目は在日朝鮮人のいろんなアーティストを集めて、神戸朝高に作品を送ってもらって、そこで写真を撮ったりいろいろな作業を泊まり込みでしました。韓国、中国、アメリカなどからも出展がありました。
三回目の二〇〇二年に一挙に海外からの出展が増えて、本来目的にしていた世界から見た在日のアートということで、枠を広めました。作品数もそうなのですが、表現が多種多様で。在日の中からも若手が加わってきて。すごい刺激がありました。その若手作家たちが今の美術教員の中心メンバーです。それから子供の絵も変わってきて、今までの生活画の中に、アートというのが入ってきました。表現という意味のアートです。誰でも表現できるのだというアートです。美術で基礎を積んで、デッサンをして、うまくなればこそできるというようなそういう伝統的なものではなくて、表現は誰でもできるのだという。それが一気に広がっていきました。
基礎となる生活画というのは金漢文先生がずっとやってきたことでした。太田耕史という日本の版画の先生の影響もありました。そうして受け継がれてきた表現の伝統とか流れの中で、一時は技術的な面を重視して朝鮮画の方に行ったこともあったけれど、震災を機に本来の方向に軌道修正されて、アルン展でその表現の幅が自由にグッと広がったということです。そういう過程を経て今の学美があります。
金在日の中から若手が加わってきたというのは、震災後、ウリハッキョで美術を学んだ世代ということでしょうか?
朴そうですね。だからつながっているんですね、ずっと。そのうちの一人が今上海で活躍しています、アーティストとして。
金そういう流れの中で神戸が大きな役割を果たしたということですね。
朴震災の時に西神戸ハッキョで頑張っていた美術教員は今、中央審査委員会の副委員長を務めています。学美を理論的に整理しようと、研究しています。近畿地方を中心とした教員たちで研究チームを作って、ウリハッキョの美術教育がどのように展開されて、世界の美術教育の論文と照らし合わせたときにどの位置にあるのかということを理論的に整理しようとしているのです。
金近畿地方の先生たちの交流が盛んなのですね。
朴研究を全国範囲に広げようとしていますが、地域単位ではさらに盛んです。これまで近畿地方を中心にやってきたのですが、今はほかの地方にも分担しようとしているところです。もしそうなって作品とそれを裏付ける理論が整えば、世界に示す民族教育の財産となると思います。