在日朝鮮人コミュニティがあるから、子どもたちが安心して表現できる
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朴一南・在日朝鮮学生美術展中央審査委員会 委員長
1957年1月 兵庫県姫路市生まれ
現神戸朝鮮高級学校 美術専任講師
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トラック運転手から美術の講師へ
金淑子教員になられたのはいつですか?
朴一南朝鮮大学校の美術科にいたのですが、家庭の事情で大学を続けられなくなり、一年半くらいで家に戻ってきて、トラックの運転手をしていました。半年くらいして西神戸のハッキョの校長先生が美術の先生がいないので講師をしてみないかと声をかけてくれて、講師を始めました。初めは運転手と講師を両立していたのですが、次第に教えることが面白くなってきて。一年半くらいするとトラックを降りて、西神戸と西播の二つのウリハッキョで教えるようになりました。そのうちに中大阪や神戸、尼崎とあちこちの初級部や中級部で教えるようになって、神戸朝高にも行くようになったんです。最初、神戸朝高・美術部の指導は完全なボランティアでした。
金いつ頃のことですか?
朴講師を始めたのが二十歳のころでしたから、一九七七年の四月からですね。あちこちのウリハッキョで教えながら、十年ほどたったときでしょうか、大阪のコンピュータ専門学校という日本の学校でも二年ほど教えました。日本の学校とウリハッキョは違います。日本の学校で教えると、ウリハッキョの良さがよくわかります。それで一層ウリハッキョでの指導に力を入れるようになって、兵庫県下のすべてのウリハッキョで教えるようになりました。初級部、中級部の授業と高級部の美術部で、一番多い時は、教えている生徒が六百人に上りました。
当時は高級部に美術の授業がありませんでした。選択授業として取り入れられたのは阪神淡路大震災(一九九五年)のあとで、神戸が最初でした。最初は教科書もありませんでした。私が講師をする前、ずいぶん昔に高級部でも授業をしていたのですが、当時は青山先生という日本の先生が教えていました。有名な先生で神戸朝高の美術部は、学校創立当時から東京朝高に並ぶ伝統があります。水彩画と仮面づくりが有名でした。日本の能面のようなものも作っていました。
金先生も神戸朝高・美術部出身ですか?
朴そうです。あまり熱心な部員ではありませんでしたが。中級部ではサッカーをしていたのですが、二年生の頃に事故で腕を複雑骨折して運動ができなくなってしまったのです。その時の担任の先生が、たまたま朝大の美術科一期生で、「油絵を描いてみるか」と言われて、描いてみるとこれがなかなか面白くて、美術部のような、同好会のようなモノに入りました。
金その時はどんなものを描いていたんですか?
朴風景画でした。朝高に入ってからはあまり練習もしなかったのですが、三年生になって石膏をデッサンしたいなと思ったんですけど、ブルータスとかそういう石膏がなかった。それで毎日教育会に行って「石膏を買ってくれ」と頼みました。「だめだ」と言われながらも一週間通い詰めると、あっちが根負けして、予算を組んでくれました。当時で五~六万円したと思います。それで引き続き描きたいということで朝大の師範教育学部・美術科に進みました。
金朝大はどうでしたか?
朴本格的に描き始めると、面白くて。朝大では金漢文先生との出会いが大きかったです。先生の話に大きな影響を受けました。写生に行ったりするといろんな話を聞かせてくれて、それにすごく感動した記憶があります。
朝大を辞めざるを得なり金漢文先生が、大学から鷹の台までロマンス通りを一緒に歩きながら、美術に関する自分のいろんな思いを話してくれて、すごく感動しました。どんな話だったのかはっきり覚えていないのですが、現実が厳しくても前を見て、ロマンをもって生きろという内容だったと思います。この時に「続けなくては」と思ったから、トラックに乗りながらも西神戸のハッキョに行くことになったのだと思います。今は大学生の息子がいますが、ちょうどあの頃に聞いた言葉、人生を変えた言葉でした。一度はあきらめようと思った美術の道でしたが、この言葉でつながりが維持されたというか。