朝鮮学校の教育権利勝ち取って次世代に民族の言葉、歴史、文化を
スポンサードリンク
スポンサードリンク
植民地時代からの一貫した差別の流れ
金今の状況を見てどう思いますか?
鄭差別の流れというのがあります。それは日本が朝鮮を植民地統治したときから綿々と続いているものだと思います。まず植民地支配のための民族抹殺政策、朝鮮の言葉や文字、文化、歴史まで抹殺し、解放後は朝鮮学校閉鎖令を出して力で朝鮮学校をなくそうとし、その次は「外国人学校法」を制定して法律で朝鮮学校を押しつぶそうとしました。これに対して私たちが自治体に働き掛けて「各種学校」の認可を得ようとすると、それを妨害して、それでも私たちが認可を勝ち取ると、今度はそれを逆手にとって「各種学校だからダメだ」という状態が続きました。ところが一九九〇年以降、大阪朝高の女子バレーボール部の公式戦参加問題を発端に、スポーツの公式戦参加資格や大学受験資格、助成金支給の問題で「各種学校」の壁を少しずつ崩していくと、今度は「拉致」問題と強引に関連づけて不当な差別をしてきました。「拉致」問題と何の関係もない無垢な子どもたちを傷つけるという、本当に残酷なことを日本政府はしているのです。この流れは一貫しています。
九七年に日弁連で、朝鮮学校に対して学校教育法第一条に定められた各学校と同等の資格を認める処置をとるなど、改善を求める勧告を出しました。この日弁連の勧告は、教育会と朝鮮教職員同盟の尽力の結実で、素晴らしい内容でした。朝鮮学校の大学受験資格にとどまらず助成金など一条校と全く同じ待遇をせよとの勧告です。その時に日弁連内部で論議になったのが、金日成主席と金正日総書記の肖像画の問題だったという話を聞いたことがあります。しかしそれは内部の問題であって、仏教やキリスト教の団体が運営している学校で、それは認められないから学校として認可しないということはありませんと日弁連の人権委員長は話していました。
金四十年あまり民族教育に携わってこられて、どうでしたか?
鄭よかったですよ。民族教育への不平等を訴えにジュネーブの国連委員会にも行って、多文化共生に関するシンポジウムに参加するために日本の国会議員と一緒にカナダにも行きました。朝鮮奨学会の評議員も十年務め、感謝牌もいただきました。朝鮮大学の学生にも奨学金を出すようにいろいろやってみたのですが、全員一致ということで残念ながら思うようにいきませんでしたが。
二〇〇三年に故郷に行きました、総連の故郷訪問団で。盧武鉉政権のころです。韓国の赤十字のボランティアの人たちが大変よくしてくれました。慶尚北道の金泉。父が言っていた柿の木がありました。父が育った家に親戚がそのまま暮らしています。朝鮮戦争の時の激戦地の近くで、人民軍が来た後に米軍が来たりして、三~四回そういうことがあったようです。なので大変大きな被害を受けた地域でした。親戚が三十人ほど集まったのですが、弁護士になった甥や判事になったという甥もいました。彼らが鄭秀容先生は総連で活動したけれど、民族教育一筋でやってきたと言っていました。南の人も皆、総連の民族教育のことを知っていました。日本の学校出身の私が朝鮮語をできるのも、民族教育の現場で働いてきたからだというと、みな歓迎してくれました。
よかったです。ハラボジや祖先のお墓参りをしてチェサ(祭祀)もして。韓国にはサッカー観戦にも行って、二度行ったのですが、故郷に行ったのはよかったです。今、「朝鮮」籍は行けないんですよね。韓国で裁判にもなったようですが、最高裁で負けちゃったみたいですね。自分の故郷にも行けないなんて本当に残酷なことです。アボジは一度故郷の地を踏んで死にたいと言っていたのに、かないませんでした。
金三、四世に望むことは?
鄭民族的アイデンティティーをもって生きてほしいですね。差別に負けて日本人のふりをしたり、日本社会に隠れて暮らすのではなく、自分のルーツを知り、民族的誇りを持ち、社会に貢献できる人材に育ってほしいですね。
金退職して今、思うことは。
鄭大学を卒業して民族教育に携わった四二年間はあっという間でした。その間多くの先輩や友人、同胞とめぐり合い、また日本の有力政治家、学者、教育者、ジャーナリストをはじめ多くの知古を得ました。また共和国訪問、南の故郷訪問、スイス、カナダ、ノルウェー訪問も忘れられない思い出です。
人生で大切なことは、どういう仕事をしたか、どんな人に伴侶にめぐり会えたかということだと思います。私は一生涯民族教育に携わり、その過程で良き伴侶を得たと思っています。義父は水島に移る前の倉敷の朝鮮学校に土地を提供した人で、妻はそこで学びました。新婚旅行は南紀白浜だったのですが、妻は全日程をチマチョゴリで通しました。行く先々で注目され、ほかのカップルと一緒に写真を撮ったりしました。薄給の私を支え子供四人を立派に育ててくれました。妻の支えがあったからやってこられたのです。亡き妻には感謝しています。
大変な時期ですが、代を継いで民族教育の灯をぜひとも守り続けてほしいですね。33
スポンサードリンク