朝鮮学校の教育権利勝ち取って次世代に民族の言葉、歴史、文化を
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運動通じて民族教育の重要性を再認識
鄭当時権利運動をしながら考えていたのは、日本の学校でいくら知識を習得したところで、欠けるものがあるのではないかということです。私自身日本の学校出身なのでなおさらそう思うのですが、朝鮮学校を卒業した人たちを見るとどこか一本筋が通ったところがあります。それが朝鮮学校の原点じゃないかなと。
金その違いは何でしょうか?
鄭やはり民族性でしょうね。自分のルーツというか。私の子どもは四人ともウリハッキョを卒業しました。みな私より民族の誇り、アイデンティティーを持ち、父母、目上の人を敬い、礼儀正しいです。これは一朝一夕では生まれません。長い年月の教育の賜物なのです。朝鮮学校卒業生に親不孝者はいないというのが私の持論です。朝鮮人という意識は誰にもあるじゃないですか? あなたも日本の学校に通ったことがあるそうですが、学校に通っていたころも朝鮮人ということは意識していたでしょ?
金はい
鄭でも言葉も知らないし、歴史も知らない。アイデンティティーとか誇りとか言われてもよくわからないですよね。基本は言葉、そして歴史と文化です。でもそれだけじゃダメでしょ、日本に住むから。日本の学校の児童生徒に劣らない知識が必要です。私が千葉の学校で目指したのは、卒業生たちが朝鮮人としての誇りを持ちながら、日本の社会でほかの日本の学校の卒業生に引けを取らない知識を持つことでした。
当時千葉に在日朝鮮人の歯科医が二名いたのですが、日本の学校出身の歯科医には校医の依頼を断られましたが、朝高出身の歯科医は快諾してくれました。今もその方が校医を務めています。
あの当時、欠席者を出さない運動というのには反対でした。病気の子を連れてくるなんてむごいじゃないですか? 教育的でない。私は当時「生き抜く力をはぐくむ民族教育」をキャッチフレーズにしていました。文部省に先立つこと三年です。詰め込む授業ではなく生徒に考えさせる授業で「生き抜く力」を育てることが大切なのです。生き抜く力は大きく分けて二つです。一つは民族性、言葉と歴史と文化、そしてもう一つは、日本で生き抜く学力、知識です。日本で生き抜くためには日本の歴史や文化、日本語を知らなくてはいけない。今は教えていますよね。
また国際化に見合ったバイリンガル、トリリンガルの教育にも力を入れました。朝鮮学校でロイヤルイングリッシュを教えるために英国人講師を初めて採用したのも千葉です。
またオモニパワーを学校運営に積極的に活用しました。当時のオモニ会の会長は素晴らしい人でした。学校のために全身全霊で尽くしてくれました。
当時の千葉の学校には本当に優秀な先生が多かったです。当時、優秀な先生たちと一緒にいい学校を作れたという自負があります。朝鮮学校の全国統一試験なんかでも高い成績を収めるようになりました。生徒数も増えて教室が足りないほどでした。今は千葉の学校に行ってよかったと心から思っています。
その後、総連中央の教育局に移りました。一九九一年でした。学校運営と民族教育権を担当する部長でした。当時は、日本のマスコミでも朝鮮高級学校の高体連加盟問題が大きく取り上げられて、民族教育の権利問題が注目を集めていました。九一年に大阪高体連が府総合体育大会への参加を認め、九三年には全国高体連が各地の朝鮮高級学校の公式試合参加を認めました。九三年に中央教育会に異動した後も、引き続き朝鮮学校の教育権利の獲得と運営の問題に取り組みました。それまで同胞の家を訪ねて寄付を募ると、「学校のためならば」と答えてくれる同胞が多かったこともあって、当時、教育会にはあまり活気がありませんでした。そこで教育会の重要性を再認識してもらうことと人材の育成に力を入れました。一人でも多くの人の協力を得るため『朝日新聞』や月刊『世界』などにも寄稿しました。九四年六月に『朝日新聞』の論壇に「朝鮮学校の処遇改善を望む」という記事が掲載されたときには、当時の李珍珪副議長がいい宣伝になったとたいそう喜んでくれました。当時は日本のマスコミも私たちを後押ししてくれていました。大阪では民族教育権獲得のための大会が行われて、同胞が大勢参加しました。
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