朝鮮学校の教育権利勝ち取って次世代に民族の言葉、歴史、文化を
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JR通学定期券問題が始まり
金高校から初中級学校ですね。
鄭私は本来高校の教員を希望していたこともあって、千葉の学校に行くのは気が進みませんでした。ところが行ってみると、小さな子どもたちがかわいくて。木更津や成田から二時間もかけて通ってくる児童もいるんですよ。彼らを見てこの子らを、民族教育を守らなくては、と心の底から思いました。それで民族教育の権利の問題に取り組むようになったのです。
はじめに取り組んだのが、JRの定期券の問題でした。朝鮮学校の生徒たちは遠くから通っているのに学割の対象外とされていたのです。それまではそんな差別があることすら知りませんでした。市原から子供を送っているオモニに指摘されて初めてわかったんです、「各種学校」扱いだっていうことを。当時、JR北海道とJR四国は一条校と同じ扱いをしていました。これが常識的な扱いではないですか。それで一九八八年に当時の初級部の教務主任が、JR検見川駅の駅長を訪ねて行って是正を要請したことから全国的な運動が始まったんです。JRに要請に行くと運輸省に行け、運輸省に行くと文部省に行け、文部省に行くとJRに行けとたらい回しにされました。この時に朝鮮学校の「資格問題」を再認識しました。
助成金問題では、学校の近くに社会党の県会議員が住んでいて、いつも学校に「社会新報」を持ってきていました。赴任したときに挨拶に行って、助成金について話すと、「当然の権利です。協力します」と言ってくれました。千葉では地元の日本の教職員組合との交流も盛んで、当時高教組の委員長をしていた渡辺先生が、知り合いの千葉県庁部長を通じて県知事と合わせてくれました。そこで県知事は「朝鮮の子どもたちが日本の学校に通って教育を受ける権利は保障されています。朝鮮学校に通わせるのは在日朝鮮人の勝手なので、そこまでは保障できない」という言い分でした。それに対して私が、「日本の学校に通う朝鮮の子たちは、日本人の子どもたちと同じ教育を受けて日本人のように育てられ、卒業するときは、お前は朝鮮人だと差別される」と訴えました。その後、議会にかけると手続きが面倒だからと県知事の裁断で一千万円ほどの助成金を決裁してくれました。一九八三年ころだったと思います。そういうことで千葉はほかの地域より早い時期から助成金を受け取っていました。校長会議でこのことを言うと、茨城とか神奈川、あちこちで要請を始めました。その後大阪や広島など県単位で多額な助成金を獲得するところが増えていきました。当時はバブル景気で自治体にお金があふれていましたからね。あの頃にもらっておけばもっと多くの助成金がもらえたのにと思うのですが。ところが内部では助成金に対する意識がまだ低くて、それが残念でした。
金日本政府は一九六〇年代に「外国人学校法」制定やら何やらで、何しろ朝鮮学校をつぶそうと躍起でしたからね。それに対して総連も朝鮮学校は自分たちで守ると宣言せざるを得なかったという経緯がありました。
鄭そう、それがあるんですよね、そのトラウマというかね。金をもらうと干渉されるという懸念はありました。その後は船橋市長に何度も会いました。そして彼が音頭を取って松戸市長ら一〇市の長が会を作って一千万円ほど出すようになりました。当時、千葉初中級学校には県と市から年間二千万円ほどの助成金が支給されていました。
金助成金運動の全国的な広がりはどうでしたか?
鄭当時、助成金に対して一部消極的な人もいましたが、学校運営が厳しい中、次第に運動の機運が高まりました。特に私が声を大にしたのが、助成金は「お情け」でなく当然の権利であり、教育の自主性を左右されるものではないということでした。そこで鏑矢(かぶらや)となったのが『統一評論』(九三年七月号)に私が寄稿した「在日朝鮮人の民族教育への公的補助」という記事です、権利としての助成金獲得運動が広がりました。その後各県で組織的な運動が高揚し、すべての県で獲得したのです。私も全国各地の学校に行って一緒に運動し、福岡、愛知、福井などでは現地の人と県庁に要請に行きました。全国的に総額二十億円を超えましたが、これに私が少しでも貢献したのであれば光栄です。
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