朝鮮学校の教育権利勝ち取って次世代に民族の言葉、歴史、文化を
スポンサードリンク
スポンサードリンク
「愛国」「売国」の二者択一を迫られて
金大学は楽しかったですか?
鄭楽しかったですね。登山したり、遊び仲間もいて、留学同生活も充実していました。アルバイトで家庭教師をしていたのですが、埼玉大の理学部の学生は人気が高くて週に二回で六千円、二か所で教えながら月一万二千円もらっていました。東京朝鮮中高級学校の教員の月給が一万一千円だったので、学生の頃のほうが収入はよかったのです。とはいえ当時「一万三千八百円」という歌があって、新卒の平均月収が一万三千八百円でした。そう考えると朝鮮学校の教員の給与もそんなに悪くはありませんでした。大学の寮費が一日百円で月三千円あれば寝食すべて解決できました。学費を払っても十分生活できました。
金学生時代のエピソードなどは?
鄭留学同で集まりをよくするんですよ。キャンプや講習会など本当に楽しかった。最後に参加した関東学院での卒業講習で、「愛国の道を行くのか、売国の道を行くのか、二つに一つだ」と言われました。このインパクトは強烈でした。それは誰だって「愛国」のほうがいいに決まっています。「売国」に行く人はいないでしょ。
金卒業後の希望はなかったんですか?
鄭それはありました。でもやはり国籍のこともあったし、それに週に四回家庭教師をやりながら大学院に進む勉強に打ち込むのが難しかったこともあります。私たちの時代は学生運動が最も盛んでしたが、大学教授になった彼らは運動にかかわることもなく、寮に引きこもってひたすら勉強だけしていました。高校の教師になりたいという気持ちもありました。それで教育実習に行って高校の教員資格も取りましたから。
金大学に入って感じたことは?
鄭人間の能力にはあまり差がないと思いました。同級生は各県一番の名門高校出身で、皆東京大学を目指した優秀な生徒で、一方の私は静岡の田舎の高校出身です。でも一緒に勉強すればみな同じなのです。大切なのは、教え方や教育内容ですね。
金留学同の最後の講習会で教員になることになったんですか?
鄭そうです。教員になると言ったらずいぶん歓迎されました。おだてられて討論したような記憶もあります。
東京朝高一八期生との出会い
鄭東京朝鮮高級学校に赴任して、受け持ったのが二年生、一八期生でした。彼らとの出会いが私の人生に大きな影響を与えました。彼らと出会わなかったら教員を続けていなかったかもしれません。優秀で個性的な生徒が多い学年でした。東京大学に受かるような生徒と高校受験も危うい生徒が一緒に学ぶんですよね。これは日本の高校と違う朝鮮高校の素晴らしいところだと思います。自分の高校時代とは全く違う世界でした。映画監督になった崔洋一君もいたし、やくざの幹部になった者もいたし。総連の活動家になった者も多かったし、本部委員長や中央の活動家として重責を担った人も多かった。
大学を出た頃は朝鮮語もわからないので、始めは日本語で授業しました。その時に生徒たちに三か月だけ待ってほしい、二学期からは朝鮮語で授業するからと約束しました。必死で勉強しましたね。育った家庭では一世の親たちが朝鮮語しか話さなかったし、留学同の講習会でも少し習っていたので、できたのだと思います。当時は日本の大学を出た教員が多かったので、そういう先生を集めて国語の先生が指導してくれました。
おかげで二学期から朝鮮語で授業をするようになって、同時に二年六組の担任を務めることになりました。担任だった先生が病気療養のため地元に戻られたのです。当時の生徒たちが今も定期的に声をかけてくれて、時々会っています。
金人数も多かったですよね。
鄭多かったです。一クラス五十人で十三班までありましたからね。それに師範科もありましたから、一学年八百人くらいいたんじゃないでしょうか。
金数学を担当なさったんですよね。数学は理解できる生徒とできない生徒の差が大きい科目ですが、授業はどうでしたか?
鄭私の授業は一生懸命聞いてくれました。数学が好きになったと言ってくれる生徒も多くて。私が教員になって、父が大変喜んでくれました。三代継いで教壇に立ったと。父は朝連の国語教習所で教えて、祖父は朝鮮で書堂の先生をしていましたから。
東京朝高には学年主任や教務副部長などをしながら十五年いました。日本の大学出身ということで冷や飯を食った時期もありました。学校で泊まり込むことが続いて、久しぶりに家に帰って長女を抱くと大泣きされたこともありました。十八期の彼らと過ごした時期が一番楽しかったかな。その後千葉朝鮮初中級学校に校長として赴任することになりました。
スポンサードリンク