朝鮮学校の教育権利勝ち取って次世代に民族の言葉、歴史、文化を
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「学費出すから」と進学進めた恩師
鄭そのあと北山中学校に進みました。小学校では一人の先生が全科目を教えるので、その先生が気に食わないとみんなダメになってしまいます。でも中学になると、科目によって教える先生が違います。好きな先生の科目は一生懸命やるし、嫌な先生の科目は勉強しないし、それで失敗する。でも私の場合は中学の先生がみなよくて、中でも数学の先生がよくて、数学が好きになりました。一番記憶に残っているのは中学三年生のころの担任の先生で、佐野良(マコト)先生。この先生は本当に恩人です。このころ、私は選挙でクラス委員長に選ばれたんですが、なぜそうなったかというと、この先生が非常に僕を立ててくれたからでした。例えば生徒に読ませるために教室に雑誌『世界』や朝鮮の雑誌を持って来たり、朝鮮について社会主義の理想的な国というように話したりして、私のことも本当に気にかけてくれました。卒業するときに家が貧しいから就職すると言うと、「今、就職すれば、朝鮮籍だし、いいところには入れない。蕎麦屋の丁稚とか鉄工所の下働きしかない。もったいないから高校に行ったほうがいい」と「学費が足りなければ自分が出す」とまで言ってくれました。先生がそう言ってくれたからアボジもその気になって、高校に行けということになりました。兄や姉も行きたかったのに、金がなくて行けませんでした。姉は今でも言います。浜松に朝鮮学校があったのですが、そこに行きたくて、行かせてくれと頼んだけど行かせてもらえなかったと。この先生がいなかったら私も行けなかった。高校は富士宮北高校という学校で、みんなバス通学だったけど、私は自転車で通いました。十キロの道のりでした。富士の裾野だから、行きはスイスイ行くんだけど、帰りが大変でした。海抜の差三百メートルくらいを登ったり下りたりするので。でも星はきれいでした。満天の星空です。
金周りは田んぼですか?
鄭そうです。水のきれいなところで、夏はホタルがいっぱい飛び回ります。ちなみにアサヒ飲料が北山の水を「富士山のおいしい水」とうたい、今売り出していますよ。同じ北山村でも、私が住んでいたところはそうでもなかったのですが、土地のない人たちが開墾のために移り住んだ鞍骨(クラボネ)などの開墾地は電気も水道もありませんでした。そういうところから通っている生徒もいました。
金戦後、静岡県でも開墾するところがあったんですね? 東北や北海道だけかと思っていました。
鄭富士山の麓なんかにはまだ開拓されていない土地がたくさんありました。当時は日本人の暮らしも大変だったのです。
高校でもいい先生たちに出会いました。三年生の時の升森先生は広島大学出身で被爆者でした。アメリカ軍が被爆者を診るというから患者が押し寄せたんだけど、結局はどれだけの被害を与えたかというデータをとるためだったという話なんかを聞きました。アメリカの原爆投下は結局、人体実験だったんですね。戦争を早く終わらせるためだとか、被害を少なく食い止めるためだとかいうけど、そういう面がないとは言わないけれど、トルーマンの本音は、実際に使ってみてどれくらいの威力を発揮するのか知りたかったというんですね。そんな話をしてくれる進歩的な先生でした。この先生が高校三年の担任になったときに、日本育英会に奨学金申請をしなさいと教えてくれたんです。それまで奨学金のことなど知りませんでした。でも結局国籍が朝鮮ではだめだということで落とされました。すると憤慨した升森先生が校長に掛け合って、PTA会費を免除するようにしてくれました。当時授業料が千五百円、PTA会費が千五百円でした。価値でいうと今の十倍くらいでしょうか。それで三年生の一年間は半額で通えるようになりました。進路についても親しい友達はみな静岡銀行とか大昭和製紙に入るんだけど、僕は朝鮮籍だから入れない。それでこの先生が、今は就職しても鉄工所くらいしかないから大学に進学しなさいと教えてくれました。大学に入れば八年間で卒業すればいいから、一年働いて学費稼いで、一年学校に通ってというふうにして大学で学べと教えてくれたのです。それを聞いて大学に入る気になりました。模擬試験を受けるといつも一番だったから、姉がいる大阪に行って大阪大学を受けました。ところがかすりもしませんでした。それで大阪の予備校に通って、初めて自分の実力を知りました。
金地方と都市の差はそれほどに大きかったんですね。
鄭全然違いました。田舎の高校はやはりそんなもんだったんですね。大阪の予備校に通いながら、三か月くらいして実家に戻りました。働きながら、田舎には予備校がないので静岡の予備校まで通ったこともありましたが、片道二時間かかるので、ほとんど家で勉強しながら二年浪人しました。勉強が好きだったので、あっという間でした。一年目で新潟大や静岡大の文系に受かったんだけど、どうしても理工系を勉強したくて。二年目に埼玉大学の理学部物理学科に入りました。当時埼玉の物理学科の競争率は十倍で、入ったのは十五人でした。卒業して五人が国立大学教授に、四人が国家公務員の上級職試験に受かって、キャリアになりました。
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