朝鮮学校の教育権利勝ち取って次世代に民族の言葉、歴史、文化を
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鄭秀容・在日本朝鮮人中央教育会顧問
1941年6月 大阪生まれ
1966年3月 埼玉大学卒業
4月 東京朝鮮中高級学校 教員
1981年4月 千葉朝鮮初中級学校 校長
1990年4月 総連中央教育局 部長
1991年5月 中央教育会 副会長
2008年5月 中央教育会 顧問
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教員の差別に試験を白紙で提出
金淑子何年生まれですか?
鄭秀容一九四一年生まれ。二世です。生活のためにアボジが先に日本に来て、その後家族が父を追ってきました。兄と姉は慶尚北道の金泉(キムチョン)で生まれて、私と弟は大阪で生まれました。大阪で暮らしていたんですが、戦争が激しくなって空襲のうわさがでだしたので四三年に静岡に疎開しました。静岡に親戚がいたので。今の富士宮市、当時は上井出村と呼ばれていたところに陸軍の戦車兵学校というのがあって、その周辺に朝鮮人がたくさん住んでいました、工事のために。家はそこから少し離れていたと思うのですが、戦車のいっぱいあったところで、戦車に乗ったりして遊んだ記憶があります。もちろん戦後です、戦時中は入れなかったので。
金アボジはどんな方でしたか?
鄭解放される前アボジは、大阪で日本通運に勤めていました。解放されると国語講習所ができて、名前を朝連上井出学院といったと思うんですが、そこの教員になりました。兄や姉もそこに通うようになって、私もほんの少し通いました。でもすぐにつぶされて。その後北山村に移り、北山村小学校に通うようになりました。
金アボジは故郷にいた頃、学校に通われた経験があったんですね。
鄭近代学校ではなくて、書堂(ソダン)で学んだのです。アボジは「先生と尊敬される職業は数少ない。医者も先生だが、一人ずつしか救えない。教師はいっぺんに何十人、何百人と教えられる」と言っていました。
金朝鮮人だと意識したのはいつごろでしたか?
鄭国語講習所で習って、日本の小学校に入る頃には朝鮮人だと意識していました。アボジ、オモニは家で日常、朝鮮語で話していて、一緒に遊んでいた友達も私が朝鮮人だと言うことは知っていたし。でも名前は日本名でした。「西原」と言ったのですが、これは清州鄭氏の始まりの地と言われる忠清北道の地名にちなんだものでした。
金小中高、大学と日本の学校に通われたんですよね。朝鮮人だということで、悔しい思いはしませんでしたか?
鄭覚えているのは、小学校六年生の時のことですね。担任が大塚という教員でした。名前も忘れられない。戦争で朝鮮と中国に行ったらしいのです。それで授業中に急に、「久しぶりに朝鮮の女の人が洗濯するのを見た」と言ったんです。よく聞くと私の母のことなのですね。学校の近くに住んでいたので見かけたらしい。当時、私はクラスの級長をしていたんです。その大塚という教員は何かと私に意地悪をしていた。だからわかるんです。
金悪意がこもっていた?
鄭もちろん。洗濯するのに、洗濯石鹸もない、野蛮人の洗濯方法のように言うわけです。それに対して頭に来た私は、反抗して試験を全部白紙で出したんです。その理由を言わないので校長室に呼ばれて、初めて理由を言ったのです。それで大塚が困っちゃって。今なら大変なことですよ。そしたら、成績表が全部最下位になって。「大変良い」「良い」「ふつう」「少し遅れている」「遅れている」という五段階で、全部「遅れている」に丸がついたんです。こいつめ! と思いました。あの大塚だけは忘れられない。自分が言われるのはまだいい。でも母親に対してそういうのは許せない。昔、兵隊が履いた軍靴の上の部分を削ってスリッパを作って履いていたんだけど、こんなに厚い。子供たちが授業中に紙飛行機飛ばしたりすると、級長も連帯責任だと言って、そのスリッパで私を殴るんだよね。
金朝鮮人をひどく差別する先生だった。
鄭そう。小学校にはあまりいい思い出がありません。勉強もあまりしなかったし。
金級長をするくらいだから、勉強はしていたのでは?
鄭ちょっとはしていたんだろうけど、そんなに一生懸命ではありませんでした。勉強する環境でもないし、遊ぶほうが忙しかったですね。日本の子たちとみんなでチャンバラしたり、メンコしたり、ベイゴマしたり、遊ぶのが忙しくて、ちょっとガキ大将みたいなところもありましたね。
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