朴思柔と生徒の出会い描いたドキュメント:新しい時代に同胞つながるきっかけになれば
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転機は「ウトロ」との出会い
朴そんな中で大きな転換があったとしたら、それはウトロ(京都府宇治市のウトロ地区)との出会いだと思います。二〇〇七年頃でした。京都で自主映画の上映会などで知り合った人たちを通じてある日、水谷劦一(みずたにきょういち)先生とおっしゃる日本の養護学校の元教員の方に出会ったのです。すでにご高齢で七〇歳を超えられていたと思います。「ウトロ問題を広げる会」という活動を長年されていて、ウトロ問題は戦争責任の清算の問題であり、歴史認識の問題であると、広く知らせる活動をしておられました。具体的には市民会館などの公共施設でパネル展を開いたり、ウトロ住民の方のインタビューを冊子にして配布したり、ビラ配りをしたりしていました。その先生と出会って、今度ウトロに行こうじゃないかと誘われました。
それまでウトロに行ったことはなかったのですが、気になってはいたのです。ちょうど、韓国の国会で土地買い入れのための支援金が承認されたという記事が大きく扱われた時期でもあったと思います。報道によれば土地を買い取れるくらいの金額が出るそうなので、そうすれば「街づくり」が進んで数年先には今の町並みがなくなってしまう。その前に町の姿を撮影して記録させてもらえないかなと思いました。そういうこともあって水谷先生と行ったのが最初でした。夏場だったと思います。
金どうでした、行ってみて。
朴住宅街を入ったところにあって、道一本向こうは新築の家が並んでいました。でもそれとはあまりにもかけ離れた光景でした。先生がフィールドワークをしてくださったのですけど、古い家が立ち並んでいて、このギャップは何なんだろうなと思いました。暑かったことと、水谷先生がすごく一生懸命お話ししてくださったことも印象深かったです。ウトロにはどういう人たちが住んでいて、どんな歴史があるのか、行きの電車の中や現地で話してくださったのですけど、先生のウトロに対する愛情を感じました。休憩もせずに暑い中、ずっと一緒に歩いて説明してくださったのです。水も飲まずに。少なくとも二~三時間はいたと思います。
結果的には、これが僕と同胞社会との初めての出会いでした。尊敬するオモニたちや水谷先生、本当に大きな転換だったと思います。これをきっかけにパネル展を手伝ったりして、一緒に活動するようになって、ウトロを度々訪ねるようになりました。長期間にわたって一つ一つめぐり合わせてもらったという感じですね。ビデオカメラを持って物理的な街の姿を撮影しに行くつもりだったのですけど、結局人に出会ったということです。ビデオカメラで撮影を始めたのは一年くらいあとでした。その間もいろいろあったと思うのですけど、あまり思い出せなくて。
朴思柔ともここで会ったのですよ。撮影初日でした、カメラを構えていたら、ある女性がぱっとフレームの中に入ってきて、「撮っていますか?」と訊きました。「撮っていませんよ」と言いながら実はずっとカメラを回していたのですが、その女性が朴思柔でした。当時彼女は病気の療養でウトロの町内会長さんのお宅で過ごしていたのです。この後いろいろつながって、一緒に活動するようになりました。
金二〇〇五、六年にソウルにいたのですけれど、地下鉄駅のいたるところでウトロの募金集めが行われていました。京都で教員をしていた頃にウトロにも生徒がいて、家庭訪問で何度か訪ねたことがありました。その「ウトロ」の問題が韓国で取り上げられているのが意外というか、ちょっとうれしい驚きでした。
朴それはきっと韓国の市民団体「KIN」(地球村同胞連帯)の人たちだと思います。その頃、韓国にウトロのことを発信していたのが朴思柔です。盧武鉉大統領の時代で、在外同胞に初めて韓国の人たちの目が向いた時期でした。心ある人だけじゃなくて、一般の人たちにも浸透して、こういう問題を何とかしなくてはというふうになった時代でした。
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